「社内政治って、八割がた避けられるんじゃないの」
「政治論に落とし込む人って、現実主義者というより、単に知識不足なんじゃないの」
という問題意識について、もしかするとプラトンの洞窟の比喩を使うとうまく説明できる気がしたので試してみたい。
プラトンの洞窟の比喩
プラトンの洞窟の比喩。有名なものだが、一度ここで改めて紹介してみたい。『国家論』では、プラトンが語るスタイルで以下のようなストーリーが示されている:
- 洞窟の中に、複数の囚人が手足を縛られた状態で過ごしている。
- 彼らの洞窟の外には道があるが、縛られているので道を往来するものそれ自体を囚人たちが見ることはできない。他方で、道の向こうには灯りがあるので、道を往来する人馬の影が洞窟に映る。囚人たちは、その洞窟内に映る影だけを見て育っている。
- その結果囚人たちは、影こそが実体であると思い込む。
- 囚人は決して頭が悪いわけではなく、むしろ十分な知性を持っている。この思い込みは、もっぱら、制限された状況に起因するもの。
- 囚人たちは頭がいいので、一部の囚人は、影の動きを観察したり予測したりするようになり、囚人の中で尊敬を集めるようになる
洞窟の比喩の私的解釈
人は多かれ少なかれ「囚人」と変わりない
洞窟につながれた囚人と聞くと、何やらエクストリームな状況なので、自分とは関係ない遠い世界の話と思ってしまうだろう。
しかし、これを抽象化して「限定的な情報しかない中で、世界を理解することを迫られている」と言い換えると、これは程度差こそあれ我々ひとりひとりと変わらないと言える。
すなわち、人は見えている範囲・手の届く範囲の知識や論理のみを使って世界を理解しようとする傾向がある。影と実体を混同してしまうのは、古代ギリシャの洞窟の住人だけではない。
頭が良くても「囚人」たりうる
洞窟の囚人が影と実体を取り違えたのは、決して頭が悪いからではない。これは我々にも敷衍できる話で、どれだけ頭がいい人でも、限られた知識の中では、実体と影を取り違えるような錯覚をしてしまう。
例えば、どれだけ頭のいい人でも、行ったことのない国のことについて驚くほど稚拙な偏見を持っていることがあるだろう。
むしろ、頭が良い分、いろいろ理屈をこねくり回して、却って微妙な予想をしてしまったりする。
むしろ、頭が良い分、いろいろ理屈をこねくり回して、却って微妙な予想をしてしまったりする。
知識が十分でないなかで頭が良いことは、むしろ始末が悪い
この寓話をベースに考えると、「知識不足だが頭がいい人」がある種一番悲惨であると言える。
知識がない場合、「わからない」と無知の知のスタンスを貫く人ならまだよい。
むしろ、影の分析を真面目にやってしまうと、誤解がむしろドツボに向かう。手元にある限られた情報をこねくり回して、非合理的な我流理論を振り回してしまうようになると、これは頭の良さが便益というよりもむしろコストを生み出していると言える。
自らが「囚人」であることの意識が有用
結局、どこまでいっても知識が十分な状態になることは難しいなかにおいては、我々人間ができることというと、せいぜい無知の知といったところではないだろうか。
全てを理解できているわけではなく、手持ちの知識による分析が正しいとは限らないことを意識するといった感じだろうか。
「プラトンの洞窟」と、組織が陥りがちな罠
この洞窟の囚人は、結構日本の企業(特に古い組織)に多いのではないかという印象を持っている。具体的には、社内に過度の政治を持ち込む人は、要は洞窟に縛られている優秀者(頭がいい無知)なのではないかと感じている。
自分の経験に照らすと、日本の企業の多くは、
①現場オペレーション
②社内の人間模様・歴史
③業界内の動き
については豊富な知識蓄積が見られる一方で、
(A)標準的な経営リテラシー
(B)社外・業界外の動き
については、普通に過ごしていては殆ど習得・訓練される機会が得られないように思っている。
しかし、普通の組織であれば、企画部門とかいろいろな名称で、組織運営・経営にあたる部署が存在するだろうし、あるいは経営者は直接組織運営に当たることになるだろう。
筆者が感じている懸念は、(A)(B)のような知識が欠けたまま組織運営を強いられる結果、日本企業で組織運営にあたっている少なくない人が「洞窟の囚人」になってしまっていないかというものだ。
(A)(B)といった「光」を与えられることなく、①②③といった限られた光だけを頼りに無理やり現状を理解しようとしている結果、多くの人が、内容よりも発言者や立場に引きずられてしまっているのではないかと懸念している。
人が情報を取る努力を怠ったり、経営リテラシーの習得が不十分だったりすると、どうしても「あの人はXX常務派」みたいな陳腐な政治劇が起こってしまう。X常務とY常務の当事者同士は特定の論点について正面から議論しているつもりでも、それをきちんと理解できない部下連中が、議論に内在する論点を正面から理解できないなかで、なんとか自分なりに理解するために、無理やり人間模様や経緯論を引っ張り出してしまうと、内容に関する議論がいつの間にか派閥抗争に矮小化されてしまう。そういった悲劇が、いろいろなところで起こってしまっているように感じている。
一般論的には「無知の知」が洞窟の囚人問題へのアプローチとなるように思うが、こと日本の組織論だけ取り出すと、経営リテラシーをもうちょっと鍛えるだけで回避できる無駄な政治劇が多いんじゃないのかと思っている。
組織運営にあたる人達が、組織運営リテラシー不足のなか、現場オペレーションと人間関係の知識に依拠して組織運営を行ってしまう結果、論点を経営課題ではなく個人間対立に矮小化してしまう罠は、無知の知などという境地まで至らずとも、単に訓練するポイントを変えるだけで改善できてしまうのではないかと思っている。
まとめ
- 現代の我々も、程度差こそあれ、影と実体を錯覚する「囚人」である。
- 頭がよくても、十分な知識がなければ影と実体を錯覚する罠からは逃げられない。
- むしろ、「知識不足の優秀者」こそ、手持ちの知識で無理やり現状を説明しきろうとするので、却って始末に負えないとも言える。
- 現代の組織においては、「経営リテラシー等の不足に起因して、実質的な議論をありのまま理解できない人によって政治劇に矮小化される」という形で「影と実体の錯覚」が再現されているように思われる。
- 一般論としては無知の知が「囚人」を脱却する対策となろう。しかし、こと日本の組織運営においては、単に最低限の経営リテラシーを習得するだけで(=現場のオペレーションや人間関係の知識への依存から脱却することで)、囚人となることを避けられる部分が結構多いような印象をもっている。