2019-09-01

フィデューシャリー・デューティーは人のためならず

最近色々な形でフィデューシャリー・デューティー(以下「FD」)について話題になることが増えている。

しかし、FDは利他を求める概念であり、なんというか、「やれ」と言われただけで利他行動を取ることってできるのか?無理がないか?というモヤモヤ感があった。

言い換えると、もうちょっと腹落ちする「Why FD」みたいなものがないと、意識が高い人とか、心に余裕がある人しか結局FDを遵守しないのではないか?というモヤモヤ。

それについて、様々な論考を読みつつ、自分なりに書き散らかしてみたい。



結論だけ先に書くと、FDは利他の概念だが、回りまわって己を利することにもなるということかと思う。

情けではないが、FDも、人のためではなく、自分のためにこそ大事になると言える。

以下、顧客とプロフェッショナル(「プロ」)という構図において、どちらかというとプロの観点から「なぜプロである自分は、FDを意識せねばならないのか」ということについて考えてみる。

大雑把なサマリーは以下の通り:

  • 今の社会では、それぞれのプロがその専門性を如何なく発揮することが社会全体にとってのメリットとなる
  • プロが実力を発揮するためには、顧客から任せてもらうこと(裁量)が重要
  • 顧客がプロに裁量を与えるためには、プロが
    ①能力の高さ
    ②「顧客利益のために最善を尽くす」という責任感
    の両方を持っている必要がある。能力が高いだけでは信用されないので、①だけでは不十分
  • すなわち②が必要なのだが、これってFDに他ならない。
    言い換えると、FDがないと、プロは顧客から十分な裁量を得られず、実力を発揮できない。
  • 従って、FDは、一義的には顧客のためのものだが、回りまわってプロの利益となる。
  • 法律や契約はあくまでミニマムスタンダードであり、信頼獲得のための十分条件にはなりえない。信頼獲得のためにはミニマムスタンダード(法律・契約)のみならずFDを満たしている必要がある

なお、さらに派生して、FD以外の企業理念やプリンシプルにまで検討を広げているポストはこちら→リンク




Q:FDとは何か?


A:
一言で言うとおよそ全てのプロが持つべき、顧客利益のために最善を尽くすことに関する、法律を超えた責任意識。



まず、議論の発射台として、一番狭い意味でのFDを書くと「受託者が委託者に対して負う法的義務」となる。

実務的な意味合いはもっと広い。順に拡張していくと

  • 信託の世界を超えて使われる
    今ではFDは、信託の世界を超えて、いわゆるプロ全般(他者の信認を得て、一定の裁量をもって任務を遂行する人)に適用される概念になっている。
    医者・弁護士・コンサルタント等はプロの代表例だが、自分の広い解釈では、顧客・上司から一定の裁量をもらっているサラリーマン各位もプロに含まれうるように思われる。
  • 法律を超えた概念として使われる
    法律が定めるような忠実義務や注意義務もFDの構成要素のひとつではある。
    しかし、広い意味でのFDは、「法律を満たしていればオッケー」というミニマムスタンダード思考の真逆の発想、すなわちプリンシプル思考まで求めていると思われる。
    というのも、大事なのは「顧客がプロを信頼して任せようと思えるかどうか」であり「法定の義務を満たしているか」は、信頼獲得のための一パーツではあっても、決して十分条件にはなり得ないからだ。
    「最低限の法令は満たしたんだから、お前、俺を信じろ」と言われて素直に信じる顧客も、いるかもしれないが、まあ多くはないだろう。
以上を踏まえると、実務において我々が意識すべき広義のFDは「およそ全てのプロが持つべき、顧客利益のために最善を尽くすことに関する、法律を超えた責任意識」となる。



FDは利他の概念でもある

すなわち、FDが求める「プロは、顧客利益を大事にせよ」というコンセプトは、言い換えると「プロは、自己利益を優先しない」となる。

次のQAで詳述するが、プロとは「すごい人」という意味合いもあるが、FDが想定するプロは「自己利益を優先せず、他人のために尽くせる人」ということになる。

能力もさることながら、その姿勢がプロとノンプロを分けることになる。



Q:プロとはどういう定義で用いられているのか?


A:
FDにおいては、「顧客利益最大化のため、裁量が与えられた人」と定義される。

プロという言葉は、日常では「すごい人」とか「達人」とか「それで金を稼ぐ人」とか、色々な意味で用いられている。

他方で、FD議論における「プロ」とは、「顧客のために高度な専門性を発揮するべく、その仕事について、相当程度の裁量を与えられる人」と定義される。

ここでキーワードとなるのは裁量だ。なぜ裁量がキーワードになるのだろうか。

現代の複雑な仕事はとても高度化されているので、発注者が自らやること(OKY:「お前がこっちでやってみろ」)が難しい。

また、発注者が逐一指示しているようでは、その専門性は十分に発揮されない。ゴルゴ13が、「今チャンスですけど、撃っていいですか」など聞いていたら仕事にならない。一々顧客に聞くことは、むしろ顧客のためにならないのだ。

寿司屋の大将も同じだ。シャリの炊き方や握る力加減等について裁量を持つ必要がある。

いちいち客にお伺いを立てていては、その客が本質的に求めている「おいしい寿司を、楽しく食べること」が果たされない。裁量がないと、大将がやりづらいだけではなく、客にとっても不利益になるのだ。

この通り、裁量を与えて任せないと、プロはその仕事を完遂できないのだ

映画なんかで、荒くれ者が特定のプロジェクト(銀行強盗等)のために一時的に手を結ぶという話があるが、こういった荒くれ者は、能力は高いかもしれないが、FDを有していない点において、本稿で言うところの少しプロとは距離がある。


Q:なぜプロとFDの議論がつながるのか?


A:
プロが活躍するために一番大事なのは裁量であるが、顧客から裁量を得たければ、FDがどうしても必要になる

プロからの目線でいうと、任せてもらわないと、実力を発揮できない。

顧客からの目線でいうと、任せないと、目的(利益最大化、美味しい寿司、etc)が達成できない。

プロ・顧客の両者にとって裁量は必須であり、任せないことはデメリットになるのだ。



とはいえ、「任せないと損する」というだけで顧客がプロに裁量を与えられるかというと、それは難しい。裁量は決して当然のものではない。

我々は、どのようなプロでも、その相手が「私はプロです」と名乗れば、無条件に信頼して任せることはできるだろうか?

普通はそんなことはないはずだ。「この人は任せるに足る人だ」という信頼が構築されるまでは、その人に仕事を任せることはできないだろう。

では、信頼が構築されるために必要なものは何だろうか?2つに分けて考えてみる。

まず1つ目は実績や腕前といった、プロの能力それ自体だろう。能力がなければ、そもそもプロはプロたりえない。

では、能力が高ければ、我々はどのようなプロでも任せることができるだろうか?そうではないのではないか。

というのは、裁量を与えてしまうと、プロと顧客の間で、2つの「望まない結果」が生じえて、普通我々はそれを無意識に気にするからだ。

  1. 利益相反:プロがその裁量を悪用し、顧客の利益を自らに移転してしまうリスク。
  2. 必要不十分:プロが、顧客と契約を通じて約束した必要最低限の仕事しかしない結果、顧客の利益が最大化されないリスク。「契約に書かれていることはやったのだから、文句ないでしょ」と雇ったプロから言われてしまったことはないだろうか。

上記のような利益相反や必要不十分が生じてしまうと、顧客とプロの間の信頼関係は揺らいでしまう。

そうすると、信頼が減る/なくなるので、裁量が減ってしまうだろう(例:業務委託契約が分厚くなり、箸の上げ下げまで指示せざるを得なくなる)。

すなわち、信認を得るためには、能力に加えて、望まないことをしないことへの信頼感が必要になる。

では、顧客は、プロがどのようであれば「望まないことをしないことへの信頼感」を感じることができるのだろうか?

この問いへの答えが、まさに広義のFDになる。

冒頭に書いた定義「顧客利益のために最善を尽くすことについての、法律を超えた責任感」は、まさにこの「どうすれば信頼を得ることができるのか」という、プロをプロせしめるための根源的問いへの回答となっている。

プロの側にFDがないと、顧客は、仮にそのプロの能力が優れていたとしても、そのプロを信頼し任せることができないのだ。


Q:FDは義務で、しかも法律を超えた無制限のものであるとのこと。それって重たい。なぜプロは、そのような重いものを負わなければならないのか?


A:
FDがないと、あなた(プロ)は顧客から十分な裁量を得られず、ひいてはあなたはその能力を十二分に発揮することができないからだ。FDは一見すると利他の概念だが、本質的には利己の概念でもある



「顧客がどの程度あなたを信頼して、仕事を任せてくれるかどうか」は、非常に深い問題だ。

得てして日本においては「任せる側の度量が小さい」という情緒論に傾いてしまい、「経営者や委託者は、もっとプロを敬え」という、実効性のないただの精神論しか提示できずにいたように思う。

しかし、FDの議論を敷衍すると、能力が高いだけでは、プロは十分な信頼・裁量を得ることができない

能力に加えて、顧客利益のために、契約や法律といったミニマムスタンダードを超えて最善を尽くす責任感-すなわちFD-がないと、顧客はプロに十分な信頼・裁量を与えることはできないのだ。

十分な信頼・裁量を得るためには、あなた(プロ)は、顧客に対して、能力のみならずFD意識の高さを示す必要がある。

FDなしに「私は能力が高いのだから、任せて下さい」というのは、残念ながら無理がある。

自分の意見では、日本においてプロに十分な裁量が与えられていないとすると、その原因は任せる側の度量が小さいからではなく、プロの側が「プロの要件」を狭く解釈していて、FDを発揮できていなかったからではないかと考えている。

ある程度鶏と卵の要素はあるが、でも、あなたがプロなら、自らFDを発揮するところから始めることが大事ではないだろうか。


Q:契約に書かれたことだけやることの何が悪いのか?「契約以上のことが必要」って精神論的で気持ち悪い。契約に書けばいいじゃん。


A:

言いたいことはわかる。表面的には悪くないこともわかる。ただ、「契約や法律を満たせばそれでよい」というミニマムスタンダード思考の人が、果たして顧客から十分な信認を得ることができるだろうか?

  • プロは裁量がないと本領を発揮できない
  • 顧客は、能力が高いというだけではプロを十分には信頼できず、裏切らないことの心証も必要
という本稿における2大原則をあわせて考えると、契約や法律を超えた義務感は、一見すると気持ち悪いかもしれないが、落ち着いて考えると不可避であるように思われるがどうだろうか。

能力がないとプロとしてそもそも生きていけない。

他方で、FDを、ミニマムスタンダードレベルではなくプリンシプルレベルで兼ね備えていないとプロとしてやっていく資格が得られないだろう。

プロと顧客の間で大事なのは、能力よりも、信頼だから。


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