2020-02-15

「誰が言ったかではなく、何を言ったか」は半分嘘

よく言われる「誰が言ったかではなく、何を言ったかで判断してほしい」という話について、自分は懐疑的に思っている。

そう思いたくなる気持ちは共感するが、人の心理や行動を考えれば、無理があると思っている。

しかし、「誰が言ったか」ばかりが偏重される社会がいいかと問われると、それもやっぱり嫌だ。「仕方ない」と「望ましい」はなかなか両立しない。

本稿では、そういった問題意識のもと


  • なぜ、何を言ったかよりも、誰が言ったかが優先されがちなのか
  • どうすれば、少しでも「何を言ったか」がワークするようになるか

について書き散らしてみる。

以下では、聞き手が判断者、話し手が説明者で、話し手は何らかのアイディアについて、聞き手に賛同してもらうことを目指しているものとする。




「何を言ったか」で判断できる2条件:専門性条件と中立性条件


もちろん、「何を言ったか」で判断できるような場合もないわけではない。
以下の2つの条件が成り立つ場合は、「何を言ったか」で判断することが比較的容易になるだろう。


  • 条件A(専門性条件):話し手のみならず聞き手も、その話題について十分詳しい場合
  • 条件B(中立性条件):聞き手が、話し手の説明にポジショントーク性を感じない場合
以下、この2つについて、それぞれ詳しく考えてみる。


専門性条件:詳しくないと、「説明それ自体」だけで理解・判断することは難しい


聞き手がそのトピックに詳しくないと、話し手の説明を理解することは難しい


たとえば、「9かける9は81になる」と言う程度のことであれば、およそ殆どの人が理解できるだろうから、「誰が言ったか」ということを考慮することなしに、誰が説明しても「9かける9は81になる」と理解できるだろう。

他方で、仕事で直面するような判断事項は、残念ながら単純な掛け算と比べると格段に難しいことが多い。専門的過ぎて難しい場合もあるだろうし、将来に関する不確実性があるという意味で難しいこともあるだろう。

そのようなとき、たとえばパートナー弁護士とジュニア弁護士の会話とか、大学教授同士の会話とかであれば、双方に十分な専門性があるだろうから、トピックが難しくてもなお、「誰が言ったか」にあまり依拠せずとも判断ができるだろう。

しかし、聞き手と話し手の間で、そのトピックについて専門性格差がある場合、聞き手は「説明それ自体」だけでは判断ができない。


組織においては、話し手と聞き手の間に専門性格差があって当たり前


大きな組織では、普通分業が進んでいるので、ボスがそれぞれの部下のスキルを完全に持っている「上位互換」であるとは限らない。あるトピックについては、部下の方が上司より詳しいということは当たり前に発生する。

例えば、顧客と実際に対話している営業担当者と、それを取りまとめている営業部長では、それぞれの顧客に関する情報量には大きく差がある。営業部長が、それぞれの営業担当者と同じレベルでそれぞれの顧客情報を得ることは現実的ではない。

よく、若手などで、上司のことを、自分が持つスキルや情報については全て兼ね備えている上位互換であると妄想している人がいるが、そのような徒弟制度のような関係が成り立つのは、きわめて小さい組織くらいのものだ。ある程度より大きな規模の組織では、むしろ上司と部下で情報やスキルに格差があって当たり前であり、それゆえに分業を通じてパフォーマンスが改善することになる。

そのような組織で、ある程度専門的なトピックについて会話しようと思うと、話し手と聞き手の間で専門性に格差が生じるのは不可避だ。

情報格差が避けられない以上、「何を言ったか」だけで判断することを求めるのは非現実的

以上の通り、聞き手と話し手の専門性が同程度でないと「何を言ったか」だけで理解することは難しいが、ふつうは組織においては聞き手と話し手はあるトピックについての知識量・専門性には格差があって当たり前だ。

しかし、それでもなお聞き手は何かしら判断せねばならない。

そこで、一種の経験則(ヒューリスティック)として、何かしら、「説明それ自体」を補完するような補助線を求め、それに依拠しながら判断することになる。その補助線の代名詞が、まさに「誰が言ったか」だ。

「誰が言ったか」は、判断のための補助線として残酷なくらい有効に機能する。
その理由は、次の中立性条件で考察する。



中立性条件:説明者に何らかの利害・ポジションがあると、聞き手はそれを察知し、どうしても割り引いて聞かざるを得ない


友人同士のたわいない会話でない限り、殆どの会話では何かしら利害が生じる。

そのようなとき、普通聞き手は、話し手が有する利害・ポジションを敏感に察知し、聞く話を「ポジショントークである」と認識しながら聞くことになる。言い換えると、割り引いて聞くことになる。

たとえば、仲の良い親友同士であっても、世間話をしていたなかで突然ひとりの友人が「実は、金を貸してほしいのだけど・・・」と言い出したら、その瞬間にもう一方の友人は身構え、そこからの会話は警戒モードになってしまうだろう。

上記の例では、会話がポジショントークになった瞬間、聞き手はその会話を「ポジショントーク」と認識し、それ以降割り引いて・警戒して話を聞くことになる。

つまり
  • (余程のたわいない話でない限り)仕事において会話することそれ自体が、何らかのポジショントークにならざるを得ない
  • ポジショントークであることについて、聞き手は普通は鋭敏に察知する
  • その結果、聞き手は話し手の言うことを警戒して・割り引いて聞くことになる

あなたの思いが強ければ強いほど、ポジショントーク度は高まり、あなたの話は割り引かれる


「誰が言ったか」の恐ろしいところは、あるトピックについて思い・情熱が強い人が話せば話すほど、その人からは「ポジショントーク臭」が出てしまい、結果として額面通りに話を聞いてもらいづらくなる点にある。

言い換えると、情熱をもった当事者本人の言葉より、離れたところにいる「中立的第三者」の言葉の方が重用される場合があるということだ。

しかも、それは、「本人は当事者なのでポジショントーク臭が出てしまう」ということを踏まえると、自然な話でさえある。

思いの丈を自ら叫ぶことは、ときに逆効果


例えば一つの案件があったとして、その案件の成就に非常に強くコミットしているあなたのプレゼンよりも、何らかの中立的第三者によるコメントの方が、聞き手にとっては格段に腹落ちして聞こえることのほうが多い。

例えば、仮に「王様は裸である」と言いたいようなとき、単にそれを叫びたいだけなら好きなだけ叫べばいいが、もしその目的が関係者に「王様は裸であること」を説得することであるなら、自分で叫ぶよりも、近くにいる子供(=利害関係のない人)に、代わりに「おうさまは、はだかだ!」と言ってもらった方が数段有効だ。


「何を言ったか」で勝負するためのTips:説得せずに説得する


ここまで、「何を言ったか」自体で納得を得るためには、専門性条件と中立性条件の2つが満たされている必要があると論じてきた。

すなわち、以下のような「話し手にとって不都合な構造」があるということだ。
  • 話し手と聞き手の間で、リテラシーが揃っていないと、聞き手が話し手の説明を理解できない
  • 話し手が熱心になればなるほど、ポジショントーク臭を発してしまい、聞き手が警戒してしまう


それでは、話し手が「何を言ったか」で説得することは不可能なのだろうか。それはあまりに酷ではないか。ロジックが通用しない世の中とは、あまりに理不尽ではないか。

自分としても、そのような世の中は世知辛いと思っており、やはり、できる限りは「何を言ったか」が尊重される世界の方が望ましいと感じている。

ただ、上記のような構造はある種合理的なものであるため、単に「そんなの、イヤだ」と叫んでも意味がない。そのような構造を理解した上で、それを所与として、自らの行動を最適化させることが重要だ。

つらつらと書いてきたが、そのような「構造を理解した上での、自らの行動の最適化」とはどのようなものだろうか。

ここまでの理屈の裏返しとしては、専門性条件と中立性条件を満たすことがカギとなる。では、そのような「2条件を満たすやり方」にはどのようなものがあるだろうか?


説得しない説得


ここでは、そのようなやり方の一例として、「説得しない説得」を紹介したい。それは以下のようなものだ。

  • 説得の前に、「理解を揃える」・・・
    • 専門性条件の充足のため、まずは、いきなり本題に入るのではなく、これから議論するトピックについて、できるだけ手前から、判断に足るだけの知識の共有を優先する。
    • 理解が深まれば深まるほど、聞き手は「何を言ったか」に比重を増すことができるが、深まる前の段階では、わからない以上「誰が言ったか」に頼らざるを得ない。
    • 知識・理解を共有することで、専門性条件が整備され、議論がより「何を言ったか」で決まるようになっていく。
    • 本題から話した方が近道と一見思うかもしれないが、手前から始めれば始めるほど、理解を得やすくなる。説得をしたければしたいほど、説得から遠い地点まで戻ることが大事。
  • できるだけ当事者臭を消す・・・
    • 当事者感を出してしまえばしまうほど、ポジショントーク臭が出てしまい、同じことを言っても理解を得づらくなる。
    • 説得である以上なかなか難しいので、ある程度職人芸の世界になるが、何とかして相手に「この説明者は、のめりこんでおらず、ある程度客観的・冷静である」と認識してもらうことが重要。客観的である・ポジショントーク臭が薄いと思ってもらえればもらうほど、「何を言ったか」が通用しやすくなる。
    • すなわち、「肩入れ」「コミットメント」「本気」等は、理解を得るまでのフェーズでは逆効果。何かを達成したいのであれば、その分一層、突き放した感じを目指すのが有益。
    • ただし、納得を得た後は180度態度を変える必要がある。納得を得た後はむしろ当事者感・コミットメントを示さないと、了承されたその事柄について、応援・共感が得られづらくなる。

注意点:あなたが聞き手の時は、「誰が言ったか」に逃げ込まないよう注意する


ここまではもっぱら、あなたが話し手であることを想定して、「いかに、「誰が言ったか」に頼りがちな聞き手のガードを崩すか」という観点で議論を進めてきた。

その結論としては、「話し手としての有益な戦略は、専門性条件と中立性条件を満たすことであり、その一例は説得なき説得である」というものであった。

他方で、あなたが聞き手、例えばエラい人である時はどうだろうか?

上記のような構造があるからといって、ふんぞり返って「構造がある以上仕方ないよね、俺は『誰が言ったか』で判断するよ」と言い張るのが良いだろうか?自分はそうは思わない。

このブログでよくあるスタンスの繰り返しになるが、
  • 他人の行動を分析する際には、保守的・冷静に、他人はコントロールできないという発想のもと「人は、構造上、普通はこのようにふるまう」と見越して、そのような人をいかに動かすかと言う観点で考える
  • 同じトピックについて、自分向けの指針として考える際には、自分はコントロールできるので、「人は所詮そんなもの」と諦める必要はなくなり、真摯に「理想の自分」を追求する
のが良いと思っており、

こと自分向け教訓としては、「人はついつい誰が言ったかに依拠してしまいたくなる構造があるが、それでもなお、できるだけ、何を言ったかを大事にしよう」と考えておくのが妥当なのではないかと思っている。