若手の頃、やり手の上司がいたのだが、その人はとにかく言うことがコロコロ二転三転する人だった。朝令暮改、君子豹変するを地で行く人だった。
「行くぞ」と言ったと思ったら「退くぞ」と言ったり。
「チャレンジせよ」と尻を叩かれたと思ったら「慎重にやれ」と首根っこつかまれたり。
そして時を経て今、あろうことか、自分も言うことがコロコロ変わってしまっていることを自覚している。
我ながら反省することも多いのだが、他方で、そのようになってようやく「なぜ人は言うことがコロコロ変わるのか」問題について、その原因の一端をつかめた気がする。
自己弁護するわけではないのだが、ダメだから二転三転するのではなく、しっかりしているからこそ二転三転することがありうるのだ。
以下、コアバリューという言葉を軸に、少し考えてみたい。
2019-03-30
2019-03-16
「社内でしか通用しないスキル」なんて、実はほとんど存在しないのではないか?
古くはBeckerの人的資本理論に始まるが、経済学や、サラリーマン精神論において、人のスキルを汎用的なもの(ポータブルスキル)と企業に紐づいたもの(企業特殊スキル)に分けた議論がよく行われる。
最近だと、企業特殊スキルがネガティブに「社内でしか通用しないスキル」と言い換えられることが多い。
たとえば、大企業disの文脈で
「社内でしか通用しないスキルしか持たない大企業のオッサンは、ポータブルスキルがないので、会社が潰れたら路頭に迷う」
みたいな批判をするとか。
自分もこのような話を若いうちから念仏のように聞いていた。
なので、なんとなく強迫観念的に
「ポータブルスキル、ポータブルスキル」
「社外でも通用」
と、意識しながら働いてきた気がする。
しかし、最近思うのだが、
「本当に社内でしか通用しないスキル」「社外では心底使えないスキル」なんて、実は殆ど存在しないのではないだろうか?
今日はそのことについて雑文を残してみたい。
なお、本文の殆どは自分の愚行だが、議論の枕には、例えば人事と組織の経済学実践編などを踏まえている。
最近だと、企業特殊スキルがネガティブに「社内でしか通用しないスキル」と言い換えられることが多い。
たとえば、大企業disの文脈で
「社内でしか通用しないスキルしか持たない大企業のオッサンは、ポータブルスキルがないので、会社が潰れたら路頭に迷う」
みたいな批判をするとか。
自分もこのような話を若いうちから念仏のように聞いていた。
なので、なんとなく強迫観念的に
「ポータブルスキル、ポータブルスキル」
「社外でも通用」
と、意識しながら働いてきた気がする。
しかし、最近思うのだが、
「本当に社内でしか通用しないスキル」「社外では心底使えないスキル」なんて、実は殆ど存在しないのではないだろうか?
今日はそのことについて雑文を残してみたい。
なお、本文の殆どは自分の愚行だが、議論の枕には、例えば人事と組織の経済学実践編などを踏まえている。
2019-03-09
リーンアプローチ的世界では、意思決定はそこまで重要ではないのか?・・・失敗コストの大小による
最近わりと、入口での意思決定はそこまで重要ではないという意見の影響力が高まっているように感じている。
(自分でも「アイディアではなく行動が全て」みたいなポストを書いており、その発想に賛同する部分は多い)
多くはスタートアップ的なリーンアプローチの観点から、
入口でダラダラ意思決定に時間をかけるくらいなら、とりあえず始めて、それから適宜軌道修正すればいい
というのが主張の根幹。
これは、自分を含む大企業や官公庁に所属する個人からすると、参考になる示唆であるとは思っている。自分自身、色々な事案でリーンアプローチを使っている。
ただ、リーンアプローチは参考するのはよいが、絶対視まですることは危険だ。
言い換えると、どういう時にリーンアプローチが有効で、どういうときには有効でないのか理解しておかないと、無条件にリーンアプローチを使うのは危険ということ。
今日はその辺りについて、失敗コストというコンセプトを軸に書き散らしてみたい。
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