(太郎)
投資はリスクテイクなんだから、リスクを取らないとリターンはない。この投資はリスクはあるが、それでもなお取り組むべきだ
(花子)
取っていいリスクと、そうでないリスクがあるはず。このリスクは取れない
(太郎)
このリスクを取っても、最悪でも、この投資先が潰れて全損するだけじゃないか
(花子)
本当にそれだけか。何か引っかかる。不安だ
本稿では、このような、ありがちな「取れるリスク・取れないリスク」議論に対して、タレブの『Skin in the game(身銭を切る)(リンク)』の議論をなぞりつつ、エルゴード性・破滅リスクというコンセプトを軸に考えてみたい。
エルゴード性(Ergodicity)
エルゴード性とは
エルゴード性とは統計や物理学などで用いられるコンセプトで、ざっくり言うとクロスセクショナルの特徴と時系列の特徴が変わらないことを指す。例えば、
- サイコロの目:
- 100人の学生がサイコロを振ったときの目の平均値は、おそらく3.5となる。
- 太郎君が100回サイコロを振ったときの目の平均値も、おそらく3.5となる。
- 従って、サイコロの目はエルゴード性があると言える。
- 耐久性の高い工業製品:
- 同じ時期に出荷される工業製品の性能(例えば反発計数)を測定したときの平均値と、ひとつの工業製品の経年での反発計数の推移を測定したときの平均値が同じだったとする。
- このとき、この工業製品の性能はエルゴード的であると言える。
エルゴード性があると、何が良いのか?
得てして我々は、意思決定にあたり将来予測を行う。何かしらの情報を手掛かりに予測を行うことになるが、その際には大きく分けて2つの手法が考えられる:
- 時系列分析を基にした将来予測
- 過去の時系列分析を行い、その延長として未来を予測する
- 例:「私が今日までに100回サイコロを振ったときの平均値が3.5だった。従って、これから私が100回サイコロを振ったときの平均値も、きっと3.5になる」
- クロスセクショナル分析を基にした将来予測
- 時系列クロスセクショナル分析を行い、その結果を未来予測にあてはめる
- 例:「100人がサイコロを振ったときの平均値が3.5だった。従って、これから私が100回サイコロを振ったら、きっと平均値は3.5になる」
エルゴード性がある場合には、クロスセクショナル分析の結果を時系列に応用することができる。
例えば、「100人がサイコロを振ったときの平均値が3.5なんだから、これから私が100回サイコロを振ったら、きっと平均値は3.5になる」と言ってもおかしくない。
エルゴード性がない場合
他方で、エルゴード性がない場合には、クロスセクショナル分析で得た示唆を時系列分析に用いることは理論的に不適切となる。
例えば、以下のような事例はエルゴード的ではない:
- ある月の、北海道と沖縄の気温の平均値は、マイナス10度と20度の平均で、5度であった。
- このクロスセクショナル分析を応用し、北海道の来年1年間の年間平均気温を予測すると、上で計算した5度と予測してみた。
- 果たして、この推論は正しいか?
上の例でやっている推論は、もちろん間違っていて、その誤りをカッコつけて書けば「エルゴード性がないにもかかわらず、クロスセクショナル分析と時系列分析を混合してしまっていること」となる。
すなわち、エルゴード性がない場合には、クロスセクショナル分析と時系列分析を組み合わせてはいけないということになる。
どういうときにエルゴード性が不成立となるのか
ここでは2つのケースについて考えてみたい。
まず最初のケースは、上で挙げた北海道と沖縄の気温のような、そもそも異なるものを比べるような場合が考えられる。
「北海道と沖縄の気温の平均」と「北海道の気温」は全く別物なので、これは小学生であっても同列に扱ってはいけないことがわかる、ほとんど当たり前のケースだろう。
第2のケースは、タレブが言うところの破滅リスクがある場合だ。これは北海道と沖縄の事例と比べるとわかりづらく、一見するとエルゴード性が成立しているような錯覚を感じることが厄介なポイントだ。
タレブの例を借用して、以下にカジノの事例を紹介する(わかりやすさを改善するため、筆者による多少の肉付けを行う)。
- あるカジノに100人の人が遊びに行き、全財産を賭けてゲームしたとき、全財産を失った人は1人だけだった。よって、このカジノで破産する確率は1%である。
- あなたの友人の太郎君がこれからカジノに行き、全財産を賭けたゲームを100回行うとのこと。太郎君いわく「100人に1人しか破産しなかったので、たったの1%の確率を心配する必要はないので、楽しんでくるよ」とのこと。
- あなたはこれを聞いて、そのまま見送りますか、それとも止めますか?
この例だと、クロスセクショナルで見たときの確率(アンサンブル確率という)は当然100人に1人、1%だ。1人は破産し生活に困窮するが、それ以外の99人は何も困らない。
言い換えると、
- 1人が破産してもなお、残り99人のゲームはつつがなく開催される。
- 破産者が出る確率は、ごく普通の計算結果として、1%となる。
他方で、太郎君が100回ゲームをするとき(時系列分析の世界)はどうだろうか。
100回のうちどこか1度でも負ければ太郎君は即座に破産となり、その次のゲームをする機会は与えられない。
言い換えると、
- 100人が同時にゲームをするクロスセクショナルな場合と異なり、
- 太郎君1人が100回ゲームをする時系列で、かつ、負けたら破産するという破滅リスクを負っている場合においては、
- 一度破滅リスクが顕在化すると即終了となり、そこから先はやり直しのチャンスが与えられないので、
- 太郎君が破産する確率は1%ではなく、むしろ、ほとんど100%となる。
身銭を切って自分事として考えればほとんど自明だろうが、賢明な人であれば、「100人のうち1人しか破産しなかった」というだけで、全財産を賭ける勝負を100回もしようとは思わないだろう。
言い換えると、太郎君が破産する確率は1%ではなく100%ということだが、この、1%を100%に変えてしまう手品のような話の裏にあるのが、上述の破滅リスクだ。
破滅リスクがない世界であればエルゴード性が保たれ、クロスセクショナル分析の1%というデータを使うことができるので、太郎君は安心してカジノで遊ぶことができるだろう。
しかし、破滅リスクがある世界においては、破滅リスクがない世界で計算された分析結果(クロスセクショナル分析であっても、時系列分析であっても)をそのまま援用すると、痛い目にあってしまう。
破滅リスク(Catastrophe Risk)と投資判断
この「破滅リスクを無視して、平時の確率をあてはめてしまうと、破綻リスクを図らずも軽視してしまい、大怪我する」という話は、投資判断においても同じことが言える。
以下、このことから導き出される投資判断上の基本原則について、自分なりの言葉と順番で述べてみたい。
以下、このことから導き出される投資判断上の基本原則について、自分なりの言葉と順番で述べてみたい。
基本原則1:投資とはリスクテイクに他ならない。リスク撲滅思考に陥るなかれ
投資にはリスクがつきものであり、当たり前だがリスクを取らないとリターンは得られない。
なので、「不動産なら●%」とか「ベンチャーなら●%」等それぞれのリスクを時系列あるいはクロスセクショナルに分析して、その結果をもとに投資判断をすることになるし、
リスクとリターンのバランスを見て投資するので、「リスクがあるから、やらない」というリスク恐怖症的な発想に陥ることはつとめて避けるべきだ。
基本原則2:破滅リスクは話が別。基本原則1を忘れて、石橋を叩いて渡れ
しかし、破滅リスクがあるときには話が全く別になる。果敢なリスクテイクが許されるのは「それが顕在化しても、死なない」という前提があって初めて成り立つ。
仮に、それが顕在化してしまったときに自分が何らかの意味で破滅してしまうなら、そのリスクを取るかどうかについては、普段とは頭を切り替えて、特に慎重に臨むべきだ。
上のカジノの例のように、1%と思ったら実は100%だったということになりかねない。
ソロスは上記を彼なりに言い換えて「Survive first and make money afterwards」という箴言を残している。
彼に言わせれば、もしかすると基本原則1と2は逆にすべきということなのかもしれないが、自分としては、一般的な日本人はこの順序で書かないと「とにかく、リスクは触らないにこしたことなし」という安易な方向に流れてしまいがちと思うので、あえてリスクテイクファーストで書いている。
破滅リスクを踏まえた意思決定:言うは易し、行うは難し
「破滅リスクは避けるが、それ以外では果敢にリスクテイクする」という原則は、文字にすると当たり前過ぎてほとんど教訓としての意味をもたない。
しかし、以下に挙げるような難所まで含めて考えると、その教訓にパワーが込められていることが徐々にわかってくる。
通底するメッセージとしては「破滅リスクを避けろ」というディフェンシブな教訓というよりも、「正しくリスクテイクするためにも、破滅リスクに自覚的であれ」というもので、いわば攻めるためにこそ守るべき一線を知れという発想になっている。
いわば、OBがどこにあるかわかっていないと、安心してドライバーをフルスイングできないという話に近い。
通底するメッセージとしては「破滅リスクを避けろ」というディフェンシブな教訓というよりも、「正しくリスクテイクするためにも、破滅リスクに自覚的であれ」というもので、いわば攻めるためにこそ守るべき一線を知れという発想になっている。
いわば、OBがどこにあるかわかっていないと、安心してドライバーをフルスイングできないという話に近い。
難所①:誰かの破滅リスクと自分の破滅リスクは別
「破滅リスクを避けよう」と言い出すと、リスク回避的・守旧的な人が得てして「この投資をすると、その投資先が破綻したら困る。これは破滅リスクではないか」と言い出す。
ここで分けて考えるべきなのは、誰かが破滅しても困らない。困るのは、自分が破滅するときということであろう。
誰かが破滅するリスクまで恐れてしまうと、ほとんどあらゆる投資が不可能になってしまう。極端な話、投資先が全損するおそれがあったとしても、それが自分達の破滅に直結するものではないのであれば、そのリスクテイクは(リターンとのバランス次第ではあるが)敢行されるべきだ。
たとえば、少額のベンチャー投資などは、その投資先が破滅しても、その1社の破綻だけで投資家が連座的に破綻することはないだろう。そのようなときまで過度にリスクを恐れてしまうのは良くない。
この場合、真に心配すべきことは「その誰かが破滅すること」自体ではなく「その誰かが破滅すると、自分達にも破滅リスクが及ぶか?」ということで、これについては難所②で考えてみる。
難所②:とはいえ、投資先が破綻すると、色々な経路で、自分達にも破滅リスクが及ぶ
難所①で述べた通り、単に投資先が破綻して、投資額の全額を損失計上するだけであれば、それは破滅リスクの観点で見れば彼らの破滅リスクに過ぎず我々の破滅リスクとは言えない。
他方で、ふんぞり返って「我々のリスクは、せいぜい、投資額を全額失うことだけだ」と考えてしまうと、それはそれで危険なことが多い。投資全損リスク以外にもリスクは色々あって、実はそういった投資全損リスク以外のリスクの中に破滅リスクが潜んでいることが多い。
- 全損リスク以外にもリスクは存在することが多い
- そのようなリスクは、得てして破滅リスクであることが多い
ということを踏まえ、投資するときには想像力を働かせて「全損リスク以外に、破滅リスクはないか?」について思案する必要があるだろう。
判断上の難所③:一度破滅的なダメージを受けると、普通のリスクまで怖くなってしまう
洗練された投資家であればあるほど、何度か、破滅に近い大怪我をした経験を持っている
(本当に破滅したら、今存在していないので、あくまで破滅に「近い」ということだが)。
破滅の淵から復活するときにシナリオは、破滅リスクと一般リスクの区別ができていないときに起こる。
すなわち、本来は恐れ過ぎるべきではない一般リスクまで、破滅リスク同様「怖くて、1ミリも取れない」と思ってしまいがちになる。
冷静に考えれば当たり前だが、リスクを取らないとリターンは得られない。
そのため、仮に投資ビジネスを復興させるのであれば、結局のところリスクテイクから逃げるわけにはいかない。
しかし、破滅リスクと一般リスクの峻別ができないまま、すなわち正しい反省ができないままでいると、疑心暗鬼になってしまい、本来取るべき、あるいは取れたはずのリスクまで取れなくなってしまう。統計上の第二種の誤りだ。
判断上の難所④:意思決定者は破滅リスクと一般リスクの見分けがついていても、下にいけばいくほど区別ができておらず、組織が萎縮する
真面目に議論を重ねれば、議論に参加していた意思決定者(や、失敗案件の担当者)は、リスクを破滅リスクとそれ以外に区別できるようになり、次回以降「正しくリスクテイク」できるようになるかもしれない。しかし、それだけでは不十分だ。
議論の内容をきちんと現場の末端まで浸透させないと、意思決定者はわかっていても、現場が理解できないなか「とりあえず、リスクは全て避けておけ」という発想に陥りがち。
そうすると、どれだけ意思決定者が正しくリスクテイクする準備ができていたとしても、そもそも投資委員会に案件が上がってこなくなる。