前回は、意思決定にまつわる議論を「客観性の壁」「合理性の壁」という2つの線引きにより分類し、以下3つに世界を分割した。
- リスク下の世界
- 不確実性下の世界
- 合理性の範疇外の世界
現実はほとんどが不確実
リスクと不確実性とに区別して考えると、現実のほとんどは不確実性であり、リスクではない。
言い換えると、計算できるような「クリーンな」リスクは多くはない。
意思決定は難しいのは、そのことに起因する。計算が難しいからではなく、確率分布が未知だから難しいのだ。
※それは「リスク下での意思決定フレームワークを理解する必要がない」ことを意味しない。下記に述べる通り、不確実性下においても、用いる尺度こそ主観確率となりややこしくなるが、利用するフレームワークは同一(期待効用最大化)であり、リスク下での意思決定フレームワークを理解することは、いわば建築における基礎のようなもので、不確実性下における意思決定においても応用がきく。
不確実性回避
リスク回避については前ポストで述べた。復習すると、
- 赤い球が50個、白い球が50個入っている袋から赤い球を取り出せば1万円あげる
- 確実に5千円あげる
というゲームでは、合理的な人は後者を選ぶ(=期待値が同じ場合、リスクが低いものが選好される)というものであった。
それと類似した概念が不確実性回避。
- 赤い球が50個、白い球が50個入っている袋から赤い球を取り出せば1万円あげる
- 赤い球、白い球の内訳が不明な袋から赤い球を取り出せば1万円あげる
というゲームでは、人は前者を選ぶという考え方。
「同じようなセッティングである場合、人は不確実性が高いものを嫌う」というもの。
実務上のインプリケーションとしては、
- リスクと不確実性は異なる
- 不確実性は、リスク対比で追加的に割り引かれる
ありがちなのが、例えば上記の「赤50、白50」の袋と「内訳不明」の袋を比較して、「どうせリスクがあるんだから、どっちでも一緒だ!」みたいなことを言う人がいる。
(上記の例だと単純なので多くないとは思うが、もう少し状況が複雑になると、全然笑えない。。。)
主観確率の世界
不確実性下の世界では、定義上起こり得る状況の発生確率を客観的に見積もることができない。
そのため、人はそれぞれの状況の発生確率を主観的に見積もり、その主観的確率を用いて期待効用最大化を図るように動く。
主観確率にはいくつかの特徴がある:
(1) 主観的なものなので、人によって異なる
「X社への投資が成功する確率」
とか
「A子ちゃんが自分のことを好きでいてくれる確率」
等は、個人によってその見積度合いが異なる。
そのため、リスクでは可能であった「誰にとっても、リスクは同一」という客観性は通用しない。
同じ事象について、人によって見方が異なるという発想を受け入れる必要がある。
例えば、投資判断において、アグレッシブな投資委員Aさんと、保守的な投資委員Bさんの間で、「X社への投資がうまくいく確率」に対する意見(=主観確率)が割れることはむしろ当然だ。
そのため、担当者としては、主観確率の乖離を低減したり、投資委員各位の主観確率を少しでも改善すべく、情報の整理に努めことになる。
とか
「A子ちゃんが自分のことを好きでいてくれる確率」
等は、個人によってその見積度合いが異なる。
そのため、リスクでは可能であった「誰にとっても、リスクは同一」という客観性は通用しない。
同じ事象について、人によって見方が異なるという発想を受け入れる必要がある。
例えば、投資判断において、アグレッシブな投資委員Aさんと、保守的な投資委員Bさんの間で、「X社への投資がうまくいく確率」に対する意見(=主観確率)が割れることはむしろ当然だ。
そのため、担当者としては、主観確率の乖離を低減したり、投資委員各位の主観確率を少しでも改善すべく、情報の整理に努めことになる。
※客観性がなくなるが、それで困る場合と困らない場合があり、多くの意思決定においては客観性がなくなってもあまり困らない。ギルボアの議論を借りると、例えば裁判などでは、裁判官の偏見に依拠した判断がなされることを国民の我々は望まず、あくまで客観的な判断を期待したい。他方、経営者が限られた時間軸で投資の是非を判断するようなときには、重要なのはもっぱら経営者にとっての合理性・納得感であり、客観性は納得のための手段に過ぎない。あるいは、部下が意思決定者たる役員に意見具申するようなときには、部下は判断者ではないので、主観に満ちた意見をぶつけるよりも客観的な考え方を示した方が妥当であるが、意思決定者たる役員にとっては、彼の仕事は情報整理というよりは意思決定なので、主観的だろうと客観的だろうと、納得感のある状況になれば判断するべきであろう。
(2)主観確率は"更新"される
客観確率は、試行の前からすでに決まっているし、それは何回試行しても変わらない。サイコロで1の目が出る確率は、振る前から1/6と決まっているし、何回試行してもそれは変わらない。
他方、主観確率は、客観確率のような「事前に決まっている真の確率」は定義上存在しない。
しかし、主観確率(見積)は、情報が集まる都度"更新"され、だんだん精度を高めていくという特徴がある
(これをベイズ更新という)。
例えば、あなたにとって、「X社向け投資がうまくいく確率」という主観確率は、当初は1%くらいかもしれない。
この当初における主観確率を事前確率という。
しかし、X社との面談の結果、経営者がしっかりしていることがわかった。
その結果、あなたの事後の主観確率は30%くらいに上がる(数字は例)。
この30%を事後確率といい、
事後確率30% = 事前確率1% × "更新係数"(尤度関数という)と考える。
X社との面談が、あなたの主観確率を30倍にしたのだ。
さらに、X社の財務データ等の精査が終わったら、その段階でのあなたのさらなる更新後主観確率は60%にまで上がるかもしれない。
この場合は、30%が事前確率、60%が事後確率で、"更新係数"は2倍ということになる。
このように、主観確率の世界(不確実性下の世界)では、あらゆる確率は、あなたが情報を得ていくにつれて徐々に精度を高めていく。
言い換えると、リスク下の世界(客観確率の世界)のように、アプリオリに固定値で決まっているわけではないのだ。
このような世界観では、情報がない初期に変にあれやこれや思い悩むより、とりあえず情報を集めそれにより主観確率を改善させる方が有益である場合が多い。
いわゆるリーンアプローチなんかはこの発想に通じるものがある。
※このようなベイズ推定は、人間の意思決定でも上記の通り重要だが、ITの世界でも処理能力改善に伴いプレゼンスを飛躍的に高めている。それがディープラーニング、機械学習、AIにつながっていくが、そういった技術論は詳しくないので省略するが、ITエンジニア各位がそういった肌感覚をベースとして「変に思い悩むより、どんどんベイズ推定していった方がベター」という発想を日常の意思判断にも持ち込んでいる側面があるのではないかと感じている。なお、リーンアプローチについては別ポスト参照
※ベイズ推定は、出発点における主観確率が0または1であるときには、どれだけ"更新係数"をかけても変わらない。ゼロに何をかけてもゼロであることと同じことになる。それゆえ、情報を集めて徐々に主観確率を更新していこうと考えているときには、冒頭で変な思い込みをすることは禁物といえる。
(3)主観確率もわからないときは
ここまで主観確率について述べてきたが、現実には「主観確率の見積さえ困難」という状況が少なくない。例えば、
「全く土地勘のない新興国企業Y社への投資が成功するかどうか」
などは、入口では「何とも言えない」以外のコメントができないだろう。
このような時に用いられるアプローチとして、事例ベース意思決定アプローチがある。
おおざっぱに言うと、過去の経験ストックをベースに、過去の経験のうち、今回直面している事象に一番あてはまりがよいものをそのまま適用するというもの。
「情報を蓄積すればするほど、意思判断のための精度が上がる」という点においてはベイズ更新と似たところがある。
事例ベース意思決定にせよ、ベイズ推定にせよ、主観確率に自信がないときには、とにかくゴリゴリと情報蓄積を進めて、自分のなかの主観確率の精度を高めていくことが重要になる。
※ただし、情報収集にはコストが伴うため、実務上は、「それだけのコストを支払って情報収集してまで本当にやるのか?」「わからないならやらない、という発想ではだめか?」という自問自答を絶えずしていくことがセットになろう。
3つの「難しい」をきちんと峻別する
これは教科書の記述というよりは自身の経験上の考察だが、不確実性が伴う話では、いろいろなレベルの「判断の難しさ」がごちゃまぜになることが多いように思われる。
それらをきちんと区別することが重要ではないかと感じている。
(a)主観確率の分布がわかり、その期待値は満足的
回収額 | 主観確率 | 期待値 |
$300.00 | 40% | $120.00 |
$100.00 | 10% | $10.00 |
$50.00 | 50% | $25.00 |
$155.00 |
上表では、$100投資する案件で、数年後の期待回収額に関する主観確率分布とそこから得られる期待値を図示している(暗黙に、ここでの期待効用=期待値と仮定。)
この投資においては、回収額それぞれに対する主観確率の見積はできているので、各種情報収集は満足にできており、収集した結果として、投資元本$100に対し$155.00とそれを上回る回収額が期待できる。
このような状況は、「主観確率がわかり、その結果、期待値が満足的であることもわかる」「不確実性は相対的に高くなく、高いのはリスク」という状況であり、このような状況における「むずかしさ」は以下2点に集約できよう。
- 意思決定者が複数名いるとき、それぞれが持つ主観確率が一致しない
→議論を通じて、認識のすりあわせを行ったり、多数決等により「ずれがある中でもどう意思決定するか」について検討することが求められる。 - 期待回収額が$300から$50までブレる(リスクの高さ、not 不確実性の高さ)
→ブレがありうるということを意思決定者が理解した上で、そのブレに見合った割引率(ハードルレート)を設定することで対処することが求められる。
(b)主観確率の分布はわかったが、その期待値が低い
回収額 | 主観確率 | 期待値 |
$300.00 | 1% | $3.00 |
$100.00 | 10% | $10.00 |
$50.00 | 89% | $44.50 |
$57.50 |
同じような設例だが、上図の投資では、期待値が投資元本を下回っている。
このような状況は、「主観確率がわかる結果、その期待値が十分でないこともわかる状況」であり、別のたとえで言うと「ビルの100階から飛び降りる」ようなもの。
このような投資に伴うむずかしさは、不確実性下の世界特有のむずかしさとか"Difficult to make decisions”というよりは、単に"Unattractive"の言い換えであるように思われる。このような”むずかしさ”に対しては、以下のようなアプローチが想定される:
- 案件採択しない・・・期待効用がマイナスであると判断し、案件棄却する。
- 期待値はさておき、期待効用はどうか検討する・・・例えば、こういった投資をすることで、何かしら戦略的に得られるものはないか?もしある場合、それらを織り込んだ期待効用はプラスになったりしないか?
(c)主観確率の分布すらわからず、その期待値もわからない
回収額 | 主観確率 | 期待値 |
$300.00 | ??? | ??? |
$100.00 | ??? | ??? |
$50.00 | ??? | ??? |
??? |
同じような設例だが、情報収集が十分に進まず、主観確率の見積さえできていない状況。言い換えると、不確実性が相対的に高い状況。冒頭で考察した「不確実性回避」のところで論じた話がここで舞い戻ってくる。記述的に言うと、不確実性についてはリスクとは別途追加的に保守的に見るのが人間の一般的な行動。規範的に言うと、意思決定者は不確実性を追加的にディスカウントして意思決定すべきであろう。
この場合には、期待値の計算すらできないことが難しさの根幹となり、想定されるアプローチは以下のようになる:
- 案件採択しない・・・大事なのは、このような案件を「赤50、白50の袋」と同様に錯覚せず、「それよりも不確実性が高い」と捉え、追加的にディスカウントすること。多くの意思決定者や企業は、暗黙または明文化されたルールで、「わからないものには手を出さない」というルールを掲げているところが多いがそれは不確実性回避の経験則かもしれない。
- 過去の経験から類推する・・・本件の主観確率がわからない中においても、事例ベース意思決定的発想で、類似事例からの学びをもとに意思決定するという発想も想定される。ただ、この場合も、おそらく多くの企業や意思決定者は「不確実性が高いものに手を出すとやけどする」という経験則をもっていることが多いと思われ、結論は案件不採択になるのではないかと思われる。
- 情報を追加で求める・・・今は情報が不足していても、追加で情報を求めることにより、ベイズ更新がなされ、主観確率の精度が改善する可能性はある。
繰り返しだが、このような事例を「リスクがある事例」と混同せず、意思決定上より危険な状況であることを認識することが肝要ではないかと思われる。
"イシューから始める"ことの留意点
事前確率≒仮説、事後確率≒結論
ここまでに述べた、
- 一定の事前確率をもって動き出す
- 情報を得て、主観確率を"更新"する
- ある程度主観確率が定まってきたところで意思決定する
- 数式化すると、事後確率=事前確率×更新係数1×更新係数2×・・・というもの
というアプローチは、「イシューからはじめよ」で非常に洗練された形で整理されていて、「できそうでできないが、できると超有効なアプローチ」の代表例と言えるイシュードリブンアプローチ、仮説ドリブンアプローチに通じるところがある。すなわち、
という感じ。
- 仮説という一定の事前確率をもって動き出す
- 仮説を検証するための情報収集を行い、認識を"更新する"
- ある程度認識が定まってきたところで意思決定する
いい加減なイシュードリブンアプローチのもたらす危なっかしさ
これは極めて有効なアプローチであるが、情報収集回数が少ない場合には、あまり"更新"がなされず、結果として事後確率が「最初にどのような事前確率を抱いたか」に大きく依存することになってしまう。
情報収集回数が十分多ければ、事後確率に占める事前確率のウェイトは低くなり、どのような事前確率からスタートしても似たような(偏りのない)事後確率に到達できるが、検証をいい加減に行うと、事前確率に大きく影響を受けた事後確率になってしまう。
たとえば、「最近眠れないのは夕方にコーヒーを飲むせいだ」という仮説(事前確率)をもって検証を始めたとする。ちゃんと十分な検証を行えば、たとえば
等を立体的に検証し、「コーヒーというよりは、むしろストレスフルな頭の使い方をしていることが問題である」という結論(事後確率)に到達し、「22時以降は仕事は忘れる」といった"妥当な"意思決定ができるかもしれない。
- 深夜まで残業していないか
- シャワーだけでなく、ちゃんと風呂に入っているか
- 寝る前にパソコンしていないか
しかし、検証をいい加減に行い、たとえば「夕方にコーヒーを夜に飲んだ日とそうでない日のデータ」と「よく眠れた日とそうでない日のデータ」を検証しただけだと、検証したにもかかわらず、結論(事後確率)は仮説(事前確率)たる「コーヒーのせい」というところから離れられず、「コーヒーをやめよう」みたいな意思決定にしかならず、結局ストレスフルな働き方は治らず結局眠れない・・・みたいなことが想定される。
「ちゃんとした」イシュードリブンじゃないと、むしろ害悪
経験上、色々な形でイシュードリブン・仮説ドリブンアプローチは理解されているように感じている。しかし、悲しいことに、少なくない人が- 当初描く仮説がイマイチ(=事前確率の見立て・発射台が悪い)
- 検証の質・量が不十分(=事後確率に占める事前確率のウェイトが高すぎる)
結果として、「当初のヘタな思い込みを正当化しただけの、お粗末な考察」が古今東西で跋扈してしまっているような気がする。著者の安宅氏は仮設なしに闇雲に情報収集することを「犬の道」と呼んでおり、自分もまったくその通りであるとは思うのだが、自分としては、上のような「当初のヘタな思い込むを正当化しただけ」というアプローチは犬以下ではないかと感じており、どうすればより妥当なアプローチになるのか、日々他人や自分の仕事を見て悶々と思案している。。。