2016-12-29

記述的議論vs規範的議論

仕事で人と話していると、けっこう無邪気に「君はXXXすべきだ」と、こちらの土俵にズケズケと踏み込んでくる人はいないだろうか。

何の権限もないくせに、平気でこちらが決められる事項に「すべきだ」口調でものを言われてしまうと、どうしてもイラっとしてしまうことはないだろうか。

このような「~べき」という言い方を規範的議論というのだが、以下では


  • 規範的議論とは何か。その対にある記述的議論とはどの様なものか。
  • 両者の使い分けの仕方はどのようにすればいいか。

について、自分なりに整理してみたい。

全般に、参考文献は愛読のギルボア「意思決定理論入門」(リンク)「合理的選択」(リンク)

この本はおよそ意思決定の実務に携わる人全てが読む価値のある本だと思う。


記述的議論


理論や議論が記述的である(Descriptive)とは、観察される事実や事象を客観的に記述しているという意味。

例えば、
  • 地上XXXメートルから重さYキログラムの鉄球を落とすと、ZZZ秒後に着地する
  • 時系列データを見ると、マネーサプライが増大すると金利が低下する傾向がある
  • 経営者の資質に不安をもったままその会社に投資すると、その投資のパフォーマンスは低くなる傾向がある
  • 頭ごなしに人に意見を押し付けると、説得が不調に終わる傾向がある
等。

あくまで客観的に、自分の意見を含めないところがポイント。


規範的議論


議論や議論が規範的である(Normative)とは、主観的に「こうすべきだ」と論じるものを指す。

例えば、

  • 地上XXXメートルから物体を落としてZZZ秒以内に着地させたかったら、YYYキログラムのものを使うべき
  • 金利を低下させるため、マネーサプライを増大させるべきである
  • 投資で成功しようと思うなら、経営者の資質については徹底的に納得するまで投資すべきではない
  • 相手を説得したかったら、頭ごなしに押し付けるような言い方はすべきではない
等。「~べきだ」と、主観的意見・話者の判断を含むところが記述的議論との相違点。


規範的議論の注意点


社会科学における議論は、得てして、そこまで客観的になりえない


自分は、実務(≒社会科学の領域)においては、記述的議論と規範的議論を区別する必要が強いと思っている。そう思う理由は以下のようなものだ。

  1. あるのは、「法則性」ではなく、あくまで「傾向」:

    「上空から鉄球を落としたときの所要時間」のような自然科学的再現可能な法則は社会科学的世界においては基本的に存在しない。
     
    そこにあるのは何らかの相関傾向だけである。
     
    例えば、「経営者の資質」と「投資パフォーマンス」の間に、全く誤差なく、いつでもどこでも成り立つ自然科学的な法則があるとはだれも思わないだろう。
     
    多くの人は、特別なトレーニングを受けていなくても、無意識にそのこと(自然科学的「法則」と社会科学的「傾向」は違うこと)を理解している。
     
    そのため、規範的論法で話されてしまうと「相関しかないはずなのに、絶対的真理のように言われてもなぁ」と違和感を感じてしまうことになる。
      
  2. 根拠が事実というより仮説であることも:

    典型例として期待効用理論を挙げる。
     
    「効用の期待値を最大化するように動くべき」と、期待効用理論を規範的に用いるときには、
     
    ・人は合理的である
    ・効用は線形である
     
    等、様々な仮定をその議論の暗黙の前提として置いていることになる。
     
    これは相関や傾向ですらなく、ただの仮定・仮説にすぎない。
     
    社会科学における議論の一部は、単に傾向に過ぎない仮説に立脚するため、どうしても「危なっかしさ」が伴う。   
    ちなみに、大学院やMBA等では、理論それ自体よりも、むしろ理論がどのような仮説に依拠しているかとか、その理論の限界がどこかに光を当てることが多い。
     
    これも、仮説に立脚する社会科学的理論の危なっかしさゆえなのではないかと思っている。
      

規範的に言うと相手は身構える


例えば上司に、とある投資案件についてレビューを求められたとき。
 
あなたは投資候補先の経営者に不安を感じたとする。このようなときに、

  • (台本①)
    経営者インタビューでは色々と不安な回答がありました。一般に、経営者の資質に心証がないなかで投資すると、パフォーマンスはよくない傾向があります
と報告するのと、

  • (台本②)
    経営者インタビューでは色々と不安な回答がありました。経営者の資質に心証がないなか、投資すべきではないのではないでしょうか
と報告するのでは、上司が抱く印象は同じだろうか、異なるだろうか。
台本②が規範的議論だが、これには、以下のような問題点があるように思っている:


  1. 会話相手は自分で判断したい。あなたの判断を追認したいわけではない: 

    上司であれ顧客であれ友人であれ、人は「自らが判断した」と実感することを好む。
     
    「俺が決めた」という感覚が、その後の行動へのコミットメントになったりする。
     
    そのため、人は「結論は俺が出すので、論拠をくれ」と思っていることが多い。
     
    これは「早く結論を話せ!要はなんなんだ」という短気な相手でも実はそうだったりする。
     
    例えば、上記例の上司が短気だったとしても、「結論としては、投資すべきです」という一言だけではおそらく全然納得してくれないだろう。

    部下に「投資すべきだ」と言われてしまうと、そのときの上司の判断は「部下の判断を是認するか?しないか?」という「他人の判断の追認」になってしまう。それは、心理学的に「自らの判断」ではなくなってしまう。

    この通り、人には「他人の判断の追認」よりも「自らの判断」により腹落ちする傾向がある。
     
    そのようななか、上司に規範的話法で「投資すべきでない」とやってしまうのは、腹落ち感を与えない点において得策でない
     
    上司は、「自らの判断」のチャンスを奪われたうえ、「部下の判断の追認」という本来好まない判断を迫られる。そのため、上司は、無意識にそのような舞台設定に抵抗感を抱くだろう。
     
    その結果、あなたは「なんだか、思った通りに聞き入れてもらえないなぁ」と苦労することになるだろう。
      
  2. 「その論拠はそんなに確からしいのか?」という疑念を惹起する:

    この例に挙げた「経営者の資質と投資パフォーマンスの関係」は、繰り返しだが法則ではなくあくまで傾向だ。
     
    この「どこまでいっても、傾向以上のものではないこと」があるため、規範的論法にはどうしても一定の「危なっかしさ」が伴う。

    人は、「自らの判断」においては、このような危うさがあってもあまり気にしない傾向がある。
     
    他方で、「他人の判断の追認」においては、このような危うさを敏感に察知し、批判的になる傾向がある。

    この上司は、例示されている「経営者の資質と投資パフォーマンス」という相関データを自らの判断として用いるときには「ある程度相関があれば、100%の法則性がなくても、納得できる。投資は控えよう」と、悩むことすらなく判断できるかもしれない。

    しかし、この相関データを、「部下の判断の追認」のための論拠として用いるときには上司の態度は変わってくるだろう。
     
    その上司にとって、その根拠は「俺の論拠」ではなく「部下の論拠」となる。

    その結果、上司の態度は、データを自らの判断として用いる場合と比べ、保守的・批判的になりがちになるだろう。
      
  3. 規範的議論での論拠が疑われるのは、その主観性のため: 
     
    規範的に言われると身構えてしまうのは、それが「他人の判断の追認」になる側面があるだけではない。
     
    これに加えて、「規範的=主観的」 という構図もそういった批判的対応を増長する。

    規範的に言ってしまうと、その議論はどれだけもっともらしくても、客観性が損なわれ、あなたの主観になってしまう。
     
    そのため、相手はあなたの議論を「客観性の乏しい、疑わしい議論だ」「イデオロギーの押し付けだ」と、不快に思ってしまう傾向がある。

以上が示すとおり、規範的に「~すべきだ」と述べてしまうと、相手は身構えてしまう。
 
これは、あなたがどれだけその論拠について自信をもっていてもそうだ。

人がよくトラブるのはここだ。
 
自分も正直なところ留学明けはこのトラップに少なからず陥って苦労した気がしている。
 
なまじ理屈を覚えて帰国したばかりに、規範的にゴリゴリやってしまい、「なかなか理解を得られないな・・・」などと苦労していたように思い起こされる。

実務へのインプリケーション

まずは、記述的議論と規範的議論とをちゃんと区別する


実務レベルにおいては、これだけで7割は足りるようにも思われるくらい重要なポイント。

実務においては、先人の教えや自ら行った検証結果などを論拠として、上司や顧客などに説得・交渉・依頼等をすることがある。

そういった対話において、今から自分が話すものが記述的か規範的か意識するだけで、その後の他社とのやり取りは格段に難易度が下がる。

以下でも色々書くが、この「記述的か、規範的かの自覚」さえできていれば勝負は8割ついていて、ここから先はそこまで神経質にならなくてもいいのではないかと思う。




規範的議論は「自己の心構え」に絞れば問題ない


経営者の資質と投資パフォーマンスの関連であれ、他のどんな理論であれ、理論はあなたが物事を理解したり判断を行う際に役に立つ。
 
本稿は規範的理論の実務上の難しさについて述べてはいるが、理論それ自体を否定するものではない。

理論は、「自分の心構え」レベルにとどめる限りにおいては、記述的議論を頭の中で規範的議論に置き換えてもあまり支障ないことが多い。

例えば
  • 結論をあたまごなしに通告されると、相手が抵抗感を抱き説得が不調に終わることが多い
という記述的議論があれば、あなたはそれを頭の中で
  • 相手を説得するためには、結論を頭ごなしに押し付けないようにするべきだ
と変換し、自分への心構えとして心にとどめておくことで、説得や交渉がより順調に進む可能性が高まるだろう。
 
ここではまだ、記述的議論と規範的議論を区分けしすぎる必要はない。自分向けのメッセージなんだから、それが主観的であっても問題ないのだ。



他人との対話では、規範的に話すと危険


前のセクションでさんざん論じた通り、規範的に対話してしまうと、その会話が目指す判断は「相手が自ら行う判断」ではなく「あなたの判断の追認」になってしまう。

その結果、受け入れられる確率が悪化するだろうから、他者に規範的に話すことは危険だ。



なので、記述的議論にとどめるのが一案


以上に述べたような考え方により、人との対話においては、できる限り記述的議論にとどめ、そこから相手が自発的に何らかの規範的結論に到達してもらうことが望ましい。

「やれ」と言われるだけで行動してくれる人はいない。人はあくまで、「やる方が、自分にとって得策だ」と納得して初めて行動する。


どうしても規範的に言いたいときは、「私はこう思う」とする(「あなたはこうすべきだ」と言わない)


記述的議論にとどめるのが得策と述べたが、ときにはどうしても規範的に述べないと話が進まないときもあるだろう。

しかし、そのようなときにおいても、「あなたはこうすべきだ」という風に言ってしまうと、相手は心理的抵抗感を示す可能性が高い。

どうしても規範的に言いたい場合においても、たとえば「私はこうした方がいいと思った」と述べるだけで、あなたの口調から命令要素が消え、受容される可能性が改善する。