前回までに、意思決定にまつわる議論を「客観性の壁」「合理性の壁」という2つの線引きにより分類し、以下3つに世界を分割した。
- リスク下の世界
- 不確実性下の世界
- 合理性の範疇外の世界
従来の合理性の枠組で説明しきれない | ||
↓ | ↓ | |
合理的でない | 従来の"合理性"がおかしい | |
①直観が発動してしまう | 従来の枠組に限界がある | |
・脳の省力化 | ・プロスペクト理論等 | |
②その他認知の歪み | ||
・暴力、返報性、社会的同調等 | ||
(1)人は時に"合理性ワールド"の外で判断してしまう(人は常時合理的であるわけではない)
①直観
人は日々生きていくなかで、全ての事柄を熟考の上判断しているわけではない。虫が飛んで来たら咄嗟によけるし、掛け算の九九なんかでも殆ど無意識に諳んじることができる。
カーネマンによれば、人には最小努力の原理があり、同じことをやるのに複数の選択肢があるのであれば、一番楽なものを選ぶ傾向がある。いわば生きていくにあたってのリソースを節約するインセンティブがあるということになる。
これが、カーネマンのいうところの「システム1」であり、おおざっぱに言い換えると「直観」である。人は全ての意思決定を入念な熟慮に基づいて行うわけではなく、ぱっと判断できるものについては直観でさっと判断している。
そういった直観で判断しているときには、我々は必ずしも期待効用を計算し、その最大化を行っているわけではない。むしろ、ヒューリスティックと呼ばれる各種ショートカットを用いて、合理的判断をさぼっている。ここに合理性の範疇を超えた意思決定メカニズムの1つが存在する。
そういった直観でさっと処理できないようなものが出たときに、はじめて「システム2」すなわち熟慮に基づいた合理的判断(期待効用最大化)が行われる。問題は、こういった直観は、意識的に発動するというよりは、自動的に発動するということだ。人は「ここは直観で判断できる」と察知したら、勝手に直観モード(システム1)になってさっと直観で意思決定を行ってしまう傾向がある。「気が向いたときだけ直観で」ではなく、「基本的に直観」であるということ。
ここでの発想を整理すると、以下のようにまとめられる:
- 人は基本的に合理的である
- しかし、脳のリソース節約の観点から、さっと判断できそうなものについては、セミオートマティックに直観で判断してしまう。
- こういった「直観による情報処理メカニズム」自体は省力化の観点で合理的といえるが、そこでなされる判断は必ずしも合理的なものではない。
- 直観で処理できないと察知されたものについてはきちんと熟慮の上合理的に意思決定を行う
②認知のゆがみ
また、交渉や心理学の教科書などでよく語られるが、人は上記のような「さっと判断できるとき」以外にも様々な要因で合理的判断できない状況に陥る。例えば
- 暴力で脅かされたとき
- 相手に恩義を感じたとき
- 周辺が皆同じ行動をとっているとき
とか。
このときにおいては、「直観が発動して非合理的な判断をする」というよりは、認知状態が歪められたなかで、「歪められた認知のもとでは合理的だが、平常時においては合理的でない判断」をしてしまう傾向がある。
交渉の教科書は得てして紙面の30%から40%くらいを、「どういったときに認知が歪められるか」「相手にそういった技を使われたときの対処法」などに充てていることが多い。実際、意思決定においても、自分たちがどういうときにどのような罠に陥りがちか理解した上で、それらに対する対処法を理解しておくことは戦術レベルにおいて非常に重要であろう。
(2) "合理性ワールド"の世界観がそもそも怪しい(人は完全にホモ・エコノミカスであるわけではない)
一般的な経済学においては「合理的個人」という前提が敷かれ、彼らが(わかる限りにおいて)正確に期待効用を計算し、意思決定を行うというモデルで議論が行われている。
しかし、そのモデルだけで人間の行動や意思決定を説明しきることは難しく、トヴェルスキーとカーネマン等は、伝統的な経済合理性だけでは説明しきれない人間の行動について分析を行っている。
上記の「直観のスイッチ」「システム1」もそうだし、プロスペクト理論で語られる「参照点」や「損失回避」なども伝統的モデルでは説明しきれない要素。
※カーネマン等は、だからといって「人間が不合理的である」とまでは主張していない。あくまで、「基本的に合理的であるが、時に経済学者が前提とする合理性だけでは説明しきれない部分がある」「伝統的経済学の前提にちょっとおかしいところがある」と言っているに過ぎない。なので、「人間が非合理的である」と理解するというよりは、「現行の経済学における合理性前提は完全ではない」くらいに理解しておくと良い。
※こういった発想から行動経済学というジャンルが勃興し発展しているが、近代経済学における前提が書き換えられることになるのか、あるいは従来の前提は保持されつつ、例外として行動経済学的世界観も別途応用として理解されることになるのかは自分にはよくわからないところ。これは、ファイナンス理論において、CAPMに無理があると誰もが認識しつつも、だからといって分析の基本的フレームワークや実務上のスタンダードが3ファクターモデル等に置き換わらないのと似ている印象。
ここでの発想を整理すると、以下のようにまとめられる:
- 人は基本的に合理的である
- 他方、伝統的に用いられていた「合理性」では人の行動を説明しきれないことから、従来の合理性前提には穴があるように考えられている
※(1)で言っていることは「人は時に合理性から逸脱する」というものであり、そこで語られるヒューリスティック等は基本的に合理的とは言えない行動になる。他方、ここで言っているのは「合理性なるコンセプトにも、怪しいところがある」というものであり、ここで語られるプロスペクト理論等はむしろ合理性の定義を塗り替えるものである。合理性の範疇外の事柄を論じるにあたっては、それが合理的でないのか、合理的だが伝統的合理性の定義をはみ出しているのか、峻別が求められる。
主なトラップ
以下では、(2)の「合理性の定義にチャレンジするもの」については取り上げず、実務上主に出番があると思われる(1)、すなわち合理的判断を妨げる色々なものについて考察する。
ここではそれぞれについて詳細に考察することは省略する(ググればいくらでも出てくる!)が、チェックリスト的に主だった定番トラップを列挙することと、使いまわしのきく「定番の対応策」について概観しておきたい。
合理性トラップ・チェックリスト
- 関連しない2つの情報の誤った因果付け
- 認知容易性
- 確証バイアス
- 代表性ヒューリスティック、ステレオタイプ
- 利用可能性ヒューリスティック
- ハロー効果
- 後知恵(Hindsight)
- アンカリング
- フレーミング
- 認知に影響する諸要素(権威、希少性、社会的同調等)
トラップへの対処法
上記で挙げたようなもの、あるいは掲載できていないものそれぞれが、あなたの意思決定を合理的なものから遠ざける。それゆえ、より良い意思決定のためにはこれらトラップに対する処方箋を持っておく必要がある。
細かく論じだすとトラップそれぞれに特有の対応策があるが、ここでは一般論レベルでいったん総括しておきたい。
①認識し、立ち止まるだけで半分勝ち
そこにトラップがあることを理解できないでいると、直観が発動してしまい、頭を使うことなく、おそらく気持ち良い心理状態で、あなたは合理的でない判断をしてしまう可能性が高い。
しかし、これらのトラップの多くは、「あ、これは合理的判断を歪めるトラップだ!」と認識できるようになるだけで、それ以上の特段の作業をせずとも半分以上解決するという肌感覚をもっている。危険信号を察知するだけで、直観による判断が息をひそめ、熟慮モードになり合理的判断ができるようになると思われる。
「認識せよ、と言われても困る」というのが想定される反応だが、これは野球やゴルフの練習と同じで、トレーニングを通じ「体に覚えさせる」しかないのではないかと思っている。具体的には
- トラップそれぞれについて、理屈レベルで頭に入れる
- 実戦またはシミュレーション等を通じ、それぞれのトラップに引っかかる経験を積む
- その「引っかかった経験」が記憶に残っているうちに、それぞれの理屈を頭の表層部から体の内奥に「染み込ませる」
ゴルフのアナロジーで言うと、「ヘッドアップはいけない」という理屈を知らずに闇雲に素振りしていても永遠にヘッドアップは改善しない。練習を通じた改善がカギになるが、必ず練習の前後に理屈のインプットを合わせることで効率的な改善が達成される。
②直観を信じよ、ただし過信しない
そのようなトラップに直面したときには、自動的に直観が発動し、迅速に判断をしてくれることになる。
①のような話を出すと、「直観モードは封印し、常に熟慮すればいいのですね」という話になりがちだが、それは必ずしも適切ではないと感じている。そこに至るまでの経験にもよるが、なんだかんだいって直観は正しいことが多いからだ。
なので、ここで取るべきアプローチは
- 恐れずに直観にまずは仕事をさせる
- その後、いったん危険信号を察知して立ち止まる
- 立ち止まって直観を多少修正するが、修正し過ぎない。意義の8割くらいは立ち止まることそれ自体にあり、直観が行おうとした判断を大幅に修正しなくてもいいことは多い
というもの。
直観を使わずに意思決定するのはグローブを持たずに野球するようなもので、パフォーマンスの最大化に寄与しない。そのような直観と熟慮の塩梅の中に、意思決定の巧拙が現れると考えている。
意思決定力改善のために
3つの世界それぞれにおけるポイント
ここまで、リスク下の世界、不確実性下の世界、合理性範疇外の世界それぞれにおいて、意思決定上のポイントを考察してきた。それぞれの世界においてより良い意思決定をするためのポイントを概観すると以下のようになる:
- リスク下の世界:客観的に計算/測定可能なリスクが肝なので
--計算処理スキル(統計等の定量分析スキル)
--計算効率(マクロやAI含む自動化)
あたりが重要。 - 不確実性下の世界:主観的にしか認識できない主観確率が肝なので、リスク下の世界でのポイントに加えて
--適切な主観確率の"更新"(仮説ドリブン+十分な検証、検証コストとのバランス感覚等)
--客観性に対する割り切り(客観性の限界を踏まえ、ある程度のところで判断してしまう覚悟)
--不確実性や主観確率の使いこなし(複数人間で認識を近づける工夫等)
あたりが重要。 - 合理性範疇外の世界:意思決定能力を「直観」「熟慮」「その2つの切り替え」に分解できるので、上記リスク・不確実性のポイントに加え、
--直観力(システム1)
--熟慮力(システム2)
--直観と熟慮の切り替えスイッチ(バランス感覚のほか、合理性トラップを認知して立ち止まれるセンスを含む)
あたりが重要になる。
直観力、熟慮力の鍛え方
上記のうち、リスク下世界におけるポイント、不確実性下世界におけるポイントのほか、合理性範疇外の世界における「直観と熟慮のスイッチ」についてはすでに考察してきた。ここでは最後に、残った「直観力」「熟慮力」をどう鍛えればいいか、私見を述べてみたい。
①直観力:直観力を直接鍛えることは難しいのではないか
直観力を改善するとは、具体的には以下に分解できるように思われる:
- (A)直観が行う判断の質の改善:
--部下から限定的な情報報告しか受けられないなかで、瞬時に行う判断の質を改善する。
--脳味噌を奥・手前の二層になっている本棚、判断を書籍と例える。この場合、(A)の能力とは、「本棚の手前から取り出す本の選択センス」とアナロジーできるように思われる。瞬時に判断したが取り出せるのは高校の教科書しかない・・・という状況よりは、瞬時に取り出せる本が上級者向け実務本である状況の方がベターと言えるだろう。 - (B)熟慮モードに「陥らざるを得ない」頻度の低減:
--直観で判断できないと基本的には熟慮モードになり、質はさておき判断のスピードは鈍るので、100%直観でやりきるか否かは別だが、「直観主体で処理できるキャパシティ」を増やすことは改善につながる。
--上記本棚のアナロジーで言うと、(B)の能力とは、本棚の大きさを改善することで、手前の層にある本の総数を増やすことと言える。ぱっと取り出せる(手前にある=直観で処理できる)本が10冊しかないのと1000冊あるのとでは、後者の方がベターであろう。
このように、直観力を鍛えるためには、①本棚にある本のクオリティを改善し、②本棚の大きさを改善する必要があるが、これらは直観(本棚の手前側)に限られた話というよりは、本棚それ自体を改善する話と同義である。そのような発想に立つと、「変に直観力だけ改善しようとせずに、思考能力のファンダメンタルを改善することにフォーカスするのがいいのではないか」というように考えている。
なので、結論としては、直観力それ自体を直接的に改善させることは難しく、合理的思考能力の改善を行い、その結果として直観力も改善する・・・と考えるのがよいのではないかと思っている。
※「直観力の改善は不要」というと、「そんなことない」という反応が想像されるが、多くの人がイメージする「直観力の改善」とは実は「直観と熟慮のバランス力」であることが多いように思われる。ここまで述べてきた通り、2つのバランス力は別途トレーニングできるしすべきものであると考えており、上で述べた(A)や(B)の改善は少なくとも直接的には難しいのではないかと思っている。
②熟慮力:訓練+没入。理論は訓練にあたってのターボエンジン
ここまで述べてきた通り、直観力の訓練は難しく、それは専ら熟慮力の訓練を通じて達成されるのではないかと考えている。
そのような熟慮力だが、主に2つのアプローチが有効ではないかと考えている。
- 訓練:
--意思決定やその手前の熟慮について、とにかく場数を踏む。
--責任感があるような「重い」訓練や「本番」の方がベター。
--闇雲に「素振り」するよりは、要所要所、事前事後に理論を頭に入れて訓練する方がベター - 没入
--何か一つのことについて、直観や表層的思考を超えて、「どっぷり」考える経験を積むと、それが脳味噌にしわを増やすことにつながる
--没入すること自体よりも、「没入できるようなセットアップ」が重要かも。早めに仕事を切り上げる、ネットを遮断する、1つのことに集中する等。最近出た「Deep Work」なんかはまさにこの価値観を体現した書籍。