第1弾の「実務的」では
- 実務的世界では、多かれ少なかれ情報を絞ることが許容されるので、どだい、限定合理的になる。
- 従って、実務において「俺は合理的だ」とか「あいつは合理的でない」というのは、そもそものところで合理的でないのではないか
ということを述べた。
第2弾の「感情的」では
- 相手が感情的にふるまったときに、「非合理的だ」の言い換えとして「あいつは感情的だ」と非難する人が多い
- しかし、合理的戦略として感情的にふるまう人も多いし、突発的激情的な感情ですら実は合理的であることがあるので、「感情的」と「非合理的」は分けて考えるべきではないか
と述べた。
今回は、しめくくりとして、合理性それ自体について、少し考察してみたい。
合理的とは
人が合理的であるとはどのような意味なのだろうか。以下、浅学であることを良いことに、超訳というか、大胆な解釈で説明を試みてみたい(正確性が気になる方は、適宜類書をご参照下さい)
経済学的における意味合い
経済学(特に、新古典派経済学)における「合理的」とは、いわば「個人は効用を最大化するように動き、企業は利潤を最大化するようにふるまう」というときに「合理的である」となる意味合い。
これはどちらかというと規範的な言説であり、「人は効用を最大化するよう動くはずだ」「企業は利潤を最大化するよう動くはずだ」と、最後に「はずだ」をつけるとしっくり来ることが多い。
新古典派以来の一連の経済理論は、「人や企業は合理的なはずだ」というホモ・エコノミカスの前提から、あれやこれやと様々な理論を構築してきた。たとえば
- 企業は、限界利益と限界費用が等しくなるような数量だけ財の生産を行う(はずだ)
- ある人がスキーよりゴルフが好きで、かつゴルフよりビリヤードが好きな場合、その人はスキーよりビリヤードが好き(なはずだ)
等。
さらには、(ひと昔前の)シカゴ学派と呼ばれる面々を中心としつつ、その他の経済学者も、この規範的議論を一歩押し進めて「人や企業は、経済理論が示唆する行動をとるべきだ」と主張してきた(している)。
論法としては、一種の三段論法で
- 人や企業は合理的なはずだ
- 経済的合理性を前提とすれば、人や企業はXXXのようにふるまうはずだ(XXX:限界効用と限界費用、ゴルフとビリヤード、etc)
- よって、あなたが合理的なら、XXXのようにふるまうべきだ
と、「はずだ」が「すべき」にすりかわっている。
日常用語としての意味合い
日常用語、あるいは「実務」においては、「合理的」という言葉は、もうちょっとカジュアルに、たとえば以下のような意味合いで用いられているように思う:
- 頭が良い
- ロジカルだ
- 話がわかる
- 気が合う
- なんかカッコイイ
- etc
日常において言葉がカジュアルに使われることはそんなにおかしいことではない。しかし、逆の「合理的でない」という言葉がかなり色んな意味で濫用されてしまっていることは、少し意識してもいいかもしれない:
大胆に言い換えると、「俺の意見と完全一致していない結果として、ムカツク」という意味のことを言いたいときに、カッコツケて、あるいはさも客観的であるかのような装いのために「合理的でない」という言い方をする人が非常に多い。
あなたも、「あいつは合理的でない」と吠える人に対して、内心で「いやいや、お前の方がよほど非合理的だよ。単にムカついているだけだろ」と思ったことはないだろうか?
- ロジカルに思えない
- 俺の理屈と違う
- 頑固だ
- ムカツク
- なんか感情的だ
- 違和感がある
- 嫌いだ
- etc
大胆に言い換えると、「俺の意見と完全一致していない結果として、ムカツク」という意味のことを言いたいときに、カッコツケて、あるいはさも客観的であるかのような装いのために「合理的でない」という言い方をする人が非常に多い。
あなたも、「あいつは合理的でない」と吠える人に対して、内心で「いやいや、お前の方がよほど非合理的だよ。単にムカついているだけだろ」と思ったことはないだろうか?
その「合理的」って、本当に合理的?
前節で2つ(経済学的合理性、日常用語における合理性)の合理性について概観したが、本節ではこの2つそれぞれの合理性について、少し批判的に検討してみたい。
経済学的合理性(理論レベル)
理論レベルにおいては、ホモ・エコノミカスはあくまで仮説であり、べき論を展開できるような唯一絶対的な真実ではないということが一つのポイントではないだろうか。
たとえば、上記の事例で、スキーよりゴルフが好きで、かつゴルフよりビリヤードが好きなAさんが、ビリヤードよりスキーの方が好きであることは十分にありうるだろう。
「人がホモ・エコノミカスだとすると」という仮定のおかげで、実に様々な経済理論が発展し、自分を含む多くの人が経済的繁栄を享受できているのは疑いないが、仮説は仮説にすぎず、ついうっかり絶対視してしまうリスクは避けた方がいいだろう。
シカゴ学派的な人々は、十分な経験や知識に基づき、一種の危険物取扱専門家として「危険なのはわかっているが、それでもなおこの『合理性』という代物を使うことにより、メリットがある」という一種の総合判断により「合理性を前提とした規範的議論」を行っていると理解した方がいいように思っている。危険物を扱う(合理性を根拠に規範論をぶちあげる)ことが許されるのは専門家だけであり、その辺のサラリーマンとかに過ぎない我々が無邪気に使っていい代物ではないではないだろうか。
DCFを仕事で使うことが許されるのは、DCFのいい加減さ、危なっかしさを骨の髄まで理解できている人に限られる。プルトニウムを操作することが許されるのは、原子力技術のメリデメに精通した専門家に限られる。合理性は、おそらく、プルトニウムは言い過ぎかもしれないが、DCFみたいなものだ。我々一般人が合理性を無邪気に使っていい日が来るのは、例えば、FamaとThalerの論争が終わってからでも遅くないかもしれない。
日常における合理性(実務レベル)
実務レベルにおいては、「実務という様々な限定・制約がある場においては、人の数だけ合理性がある」という発想が非常に大事ではないかと思う。
たとえば「生産量は、限界利潤と限界費用が一致するポイントに」みたいな話も、
- 社長がその財に思い入れがあり、コスト度外視で作りたい
- 労働組合が強く、やめたくてもやめられない
- 過去に「あと10年は絶対生産量を増やさない」と周辺住民に誓ってしまった
等、実に様々な個別事情が存在しうる。
もしあなたも、その対話相手も、それぞれが神様か何かで、十分な検討時間・自分や相手のことについて完全かつ十分な情報を有しており、判断力も十分に高いということであれば、もしかすると両者の「合理的判断」は一致することもあるのかもしれない。
しかし日常(・実務・現実)においては、あなたは対話相手のこれまでの経緯や、対話相手が感じている感情や、対話相手が直面する事情等、「相手の合理性のベース」について殆ど何も知らないはずだ。すなわち、実務においては、相手の合理性体系はあなたの合理性体系とは別であることが多いし、あなたは普通相手の合理性体系を知らない。
そんな中で、つい安きに流れて「俺にとっての合理性がXXXだから、相手にとっての合理性もXXXであるはず」という規範論の濫用をやってしまうと、途端に話がかみ合わなくなり、お互いに「あいつは合理的でなくて、話にならない」となってしまう。
そういった「規範論の濫用により起こる、傲慢な対話」を避けるためには、平たく言うと規範論を避けるということなのだが、具体的に言い換えると以下について十分に意識することが大事になってくる。
- 相手と自分では、合理性のベースとなる状況・感情・経緯等が異なること(相違の知、ダイバーシティの尊重)
- 自分は、相手の合理性のベースとなる各種事情をわかっていないこと(無知の知)
ヒント・発射台という意味では、合理性は有用
以上にわたり、合理性という言葉の限界や危なっかしさを考察したが、かといって、アナーキズムというか、「合理性なんてまるっきり信じられない」とまでヤケッパチになる必要はない。
1+1が2であるとも限らないという発想は大事であるが、日常(=実務)を生きていく上では「まあ、普通、1+1は2だよね」ということで特に支障はない。
また、例えば「限界利潤が限界費用と等しくなるように生産」という話も、「~生産するとよい」と教訓・ヒントという弱いレベルで認識する分には特に問題はない。それをスタートラインとしつつ、実務に伴う各種個別事情を踏まえ判断を改善していけばよいし、相手が抱える個別事情を意識しつつ「一般常識的には限界利潤=限界費用だが、さて今回はどうなることか」と「合理的理論からの乖離への心構え」「フトコロの確保」をもっておけば良く、合理的理論を捨てる必要はない。
本ポストで警鐘を鳴らしたいのは
- 仮説と事実の混同
- 真実が1つであるという思い込み、「俺の理解=ユニバーサルな真実」という誤解
- 安易な規範論の濫用
等であり、その辺りを意識できている限りにおいては、結局合理的思考を「思考の基準点、スタートライン」として使うことは依然として良いことであろう。
ただ、繰り返しだが、「合理的思考によりもたらされた検討結果」は、スタートラインや「とっかかり」には有用だが、「唯一にして絶対のゴール」とか「俺以外の皆も従うべき」となってしまうと俄然あぶなっかしくなってしまう。
結論として、馬鹿とハサミは使いようであるのと同じように、「合理性」もまた使い方ひとつで指針にも凶器にもなってしまうということかと思う。馬鹿とハサミについては「使いよう次第だから、慎重に」と意識している人も、意外と、こと合理性についてはその留意点を知らずに、無邪気に本ポストで述べたようなトラップに引っかかってしまっている人が多いように思われる。
まとめ
- 「人は合理的である」その他の仮説を、絶対的な真実と混同しまっていませんか?
- 「真実は一つである」とか「俺の理解こそが真実である」と、実務における合理性の限界を見過ごしてしまっていませんか?
- 実務においては、あなたの事情と相手の事情は異なっており、その中ではあなたにとっての合理性と相手にとっての合理性は別物であることを見過ごしてしまっていませんか?
- 「自分にとっての合理性」のモノサシで相手を批判するという過ちを犯してしまっていませんか?
- 「合理的に考えればこうだ、よって、相手はこうふるまうべき」と、規範論の濫用をしてしまっていませんか?
Further Reading
①ギルボア「意思決定理論入門」
②ギルボア「合理的選択」
③ギルボア「不確実性下の意思決定」
→とっかかりという観点では①、合理性や意思決定について他人に説明できるようになりたければ②、多少なり深い知識を求めるなら③という分担
④松原「意思決定の基礎」・・・①と似たような役割だが、日本人に腹落ちしやすい読みやすさがある
⑤マグレイン「異端の統計学 ベイズ」・・・数学を避けつつ、意思決定理論がどういう変遷をたどってきているか、肌感覚を得るのに最適。