2018-08-12

覚悟に逃げない

先日手に取った「決断という技術」という本がなかなか面白く、ニヤニヤしながら読んでしまった。

海外経験のある3人(柳川氏、水野氏、為末氏)が「ここがヘンだよ日本人」的に日本的な意思決定のクセを一刀両断にしていく本だ。

学術本ではないので読みやすい。たとえば、日本人は

・覚悟しすぎ
・割り切りを嫌がりすぎ
・捨てられない
・比較考量できない

等々。

個人的には色々突っ込みたいところもあるが(やや批判が浅く、実戦で使うためには、もう少し読者は自分の頭で考え抜く必要があると思う)、まあでも、非常に良い本と思った。



ところで、覚悟って一般的には良い意味で使われているが、何がどうダメか、スパっと言えるだろうか?

本稿では、覚悟の何がダメで、何はいいのかについて、少し考えてみたい。


ありがちな罠:意思決定までにやるべき努力を怠って「覚悟に逃げる」


「覚悟に逃げる」とは

同書内でも指摘されていたが、多くの人が、決定にあたり本来行うべき努力を怠って、かわりに「覚悟」を言い訳にテキトーな判断をしがちだ。

「本来行うべき努力」とは、意思決定にあたっての基本的なもので
  • ゴールが何なのか(何が一番大事なのか)考え抜く
  • 時間の許す範囲で、しっかりと情報収集する
  • 得た情報を分析する
  • 複数の情報を比較考量する
  • メリット・デメリットを予想する(動学的に考える)
  • バイアスを直視し、必要なら修正する
等を指す。

「覚悟に逃げる」とは、一種覚悟のせいにすることで、上記のような基本的な努力から目を背けることだ。

たとえば
  • 2つの選択肢があるときに、丁寧に比較せず、「どっちの方がより覚悟できているか」で決めてしまう
  • 十分な議論をせずに「覚悟しているのか」「はい、覚悟できています」みたいな雑な会話で決定してしまう  
  • 重大なリスクが残っているにもかかわらず「覚悟しているから良し」と決めてしまう
  • 本来は少ししかベットしてはいけない状況で「覚悟」に寄りかかりフルベットしてしまう
  • 委員会等で重要な質問を受けているのに、正面から答えないまま「覚悟しているのでその辺で勘弁してください」という論法で寄り倒す
等。

せっかくの議論が、最終局面で「覚悟」というマジックワードが登場すると、一気にいい加減になっていく。

このような残念な展開に苛立ったことのある人は少なくないのではないだろうか。

「覚悟への逃げ」はなぜ起こるのか


同書でもコテンパンにされているが、こういった「覚悟」は害悪だ。「覚悟」とか「頑張る」という精神論は、検討不足の穴埋めにはならない。

このような「覚悟への逃げ」が起こるのはなぜだろうか。

いろいろな要因があるが、大きく分けると、
「判断する側のせい」と
「判断を仰ぐ側のせい」
に分けられる。

まず判断者側の問題としては、以下のようなものがある。
  • 判断者側の問題①:意思決定者が、決定内容についての専門能力が不十分である

    →意思決定者が、判断すべき内容について専門知識を持っていないときには、判断を求められても正直わからない。
     
    そのようなときには、論理的判断ができない代替手段
    として、説明者に覚悟を求め、示された覚悟の大小をもって判断する事例がある。

    これは、「判断に足る十分な情報や知識がないという場合における、現実的な対処法」としては妥当だろう。やれる範囲においては、最大誠実に限頑張っているのだろうとは思う。

    しかし、「判断の質が十分か」と問われると、やはり不十分であると言わざるを得ないだろう。

    加えて、そういった判断を目の当たりにした提案者は、「あ、専門的論点を詰めなくても、覚悟を示せばよいのだな」とぜったいナメてしまう。

    その結果、後述する「結局覚悟の大小で判断してるんでしょ、という開き直り」を誘発してしまう。

    専門性不足を理由に十分な判断ができないと思った場合には、基本的には、覚悟を問う(覚悟ベースの判断に逃げる)のではなく、専門論点は専門家に任せるということだと思う。その上で、専門的論点の整理が終わった上でなお残る大きな論点だけ別途判断するというアプローチもあると思うし、専門家に判断を丸投げする代償としてそのような枠組みで決められる金額や規模に一定のキャップをかけるという発想もあろう。
      
  • 判断者側の問題②:判断者が、意思決定の訓練を十分に積めていない

    →上記①とも重なるが、意思決定者が判断慣れしていないときに、「わからないなりの代替案」として覚悟に依拠することが多い。

    仮に論点が「意思決定者の訓練不足」である場合は、専門家への委譲というよりは、「判断の訓練を積んだ人への委譲」あるいは「意思決定の訓練を積んだ人だけ決定権限を与える」等が必要になってくるだろう。

次に、提案者側の問題としては、以下のようなものがある。
  • 提案者側の問題①:「結局、覚悟を示せば、オッケーしてもらえる」とナメている

    →上記の理由①②の結果でしかない(①②なしに③が発症することはない)のだが、判断者がちゃんとした意思決定から逃げて「覚悟、覚悟」と言えば言うほど、提案者は、論理武装ではなく「どうやって、覚悟を演出するか」に心血を注ぐようになる。

    そうすると、意思決定は、単なる「覚悟演出ショー」に成り下がる。
    どのくらい大きな声で「頑張ります」と言うかとか、「職を賭します」と言ってみるとか、せいぜいそのくらいだ。


覚悟に逃げると何が起こるか・・・「俺は反対だったマン」の大量発生する

「俺は反対だったマン」とは


上記の通り、判断者・提案者双方の問題により、多くの意思決定が、覚悟に依拠した雑なものになってしまいがち。

覚悟に依拠した意思決定になると、納得感の醸成などは当然に行われない。

その結果、提案者以外ほぼ全員(部外者は勿論のこと、承認した上司とかも!)が、その決定事項にコミットしなくなってしまう。

そうすると、当事者であった人達が無邪気に「俺は反対だった」と言い出してしまう。

普通、「機関決定」という言葉からは「決めたからには当事者一同、きちんとコミットしよう」というコンセンサスあるいは覚悟の形成が含意される。

しかし、こういった「覚悟に逃げた意思決定」においては逆のことが起こる。

提案者が「覚悟!覚悟!」と叫ぶ結果、かえってそれ以外の人が覚悟をしなくなってしまい、

覚悟がないまま稟議書にハンコが押され、その判断が実行に移されてしまう。

その結果、いざ決めたものが逆風にさらされると「俺は実は反対だった」と平気で決定内容を尊重しない発言・態度を取る人が大量発生する。


「俺は反対だったマン」はなぜ発生するのか

こういう事態になったとき、得てして批判は「俺は反対だった」と言う人に向かうことが多い。

確かに「俺は反対だった」というのは卑怯に見える。

しかし、筆者は、「俺は反対だったマン」は実は被害者ではないかと思う。

すなわち、真の加害者は覚悟に逃げた意思決定で乗り切ってしまった提案者や、覚悟に逃げた意思決定を誘発した判断者であると考えている。

「俺は反対だったマン」が生まれるのあ、覚悟に依拠したいい加減な意思決定をした結果であり、彼らが生まれつき「俺は反対だったマン」であるわけではない。

すなわち、「俺は反対だったマン」が生まれるのは、入口で提案者と判断者が一種の共犯状態で「覚悟に逃げた」結果であり、原因ではない。

本当に「俺は反対だったマン」を減らしたければ、覚悟に逃げた意思決定を避けるべく、まずは判断者が変わり、その後提案者も変わる必要がある。

あるいは、提案者や判断者の側からの教訓としては、以下のようにも言える。

すなわち、仮に自分たちが覚悟に逃げた判断をしてしまったときには、後になって「自分は反対だったマン」が現れても仕方ないと考えておくべきだろう。

もしあなたが、意思決定の後になって「決まったのだからコミットしようぜ」とか不満を抱く場合は、あなたがそのときに覚悟に逃げた意思決定をしていなかったか?と自問自答するのが有効だ。


ところで、覚悟は不要なのか


以上の通り、自分は
  • 意思決定とき、関係者が覚悟に逃げないことが望ましい
  • 覚悟への逃げが減れば、「俺は反対だったマン」も減る
と思っている。

ただ、「覚悟はまったく不要」かと問われると、それも違うと思っている。

覚悟を馬鹿にする人は、それはそれで望ましくない

覚悟に「逃げる」のは良くない。

しかし、ちゃんとしたやり方できちんとした意思決定を実現した後は、そのあとはやっぱりちゃんと覚悟を決めて臨まないと、組織とは言えないのだろうと思う。

すなわち、

  • 決定前に覚悟に逃げるのはNGだが、
  • ちゃんと決めた後であればそこではバシッと覚悟する
     
ということではないかと思っている。