2018-10-06

反共感論:情に棹させば…

反共感論

イエール大学の心理学者が、「共感」という一見すると殆ど絶対的に善とされがちなコンセプトについて批判的検討を行う書籍。面白かったので少し備忘を残しておく。

一義的には心理学の書籍かもしれないが、意思決定論のサブテキスト的な位置づけで使える。また、おそらく元はエッセイか何かであるのか、非常に読みやすい。




私的要約

本書の主張を自分なりに要約したものは以下の通り。


  • 「共感」(Empathy, 情動的共感)とは、他者の経験を、その人の感じ方(とあなたが思う感じ方で)共有することを言う。すなわち、他者の感情を追体験すること。
    例えば、テレビCMで飢餓で苦しむアフリカの子供が映れば、少なくない人はアフリカへの募金等について、そのCMを見る前よりも積極的になるのではないか。
      
  • 共感は、他人を理解するためには有益。人に共感力が備わっているからこそ他人の苦しみを理解でき人に優しくなれる。他人とつながるためには共感は重要。
      
  • しかし、共感をベースとして意思決定することは極めて危険。なぜなら
    -- 共感は目の前の個別の事象に近視眼的に注目してしまうから。
    -- 共感は数的感覚を麻痺させ、確率・統計的に妥当ではない判断を誘導してしまいがちだから。
    例えば、アフリカの子供の映像に突き動かされて募金を行う結果、かえってその国の自律的な経済発展が遅れるといった事例が指摘できる。
      
  • 決定や判断をするにあたっては、共感に突き動かされるまま行うのではなく、ひと呼吸して、理性をベースとして行うべきであろう

というもの。さらに要約すると

共感それ自体は悪いものではないが、共感に突き動かされた意思決定・判断は危険

と言うこと。


意思決定の現場に蔓延する共感シンドローム

自分としては、この本が論じるように「共感」を批判するというよりも、

  • 感情をベースとした意思決定
      
  • (無意識的に)「自分の感情の充足」を目的とした意思決定
      
  • 結果の最適化ではなく、自己の快感を目的とした利己的・非合理的な意思決定
こそが批判の対象、共感それ自体に必要以上に批判の目を差し向けない方が議論として健全なのではないかと感じた。何しろ批判の対象は共感といいつつ実質的には「共感に突き動かされた感情的判断」なので。そうすることで、共感がもつ良い部分を素直に称賛することができるようになる。

さて、そうやって問題を少し言い換えた上で考えてみると、上記のような非合理的な意思決定は、多くの意思決定の現場に驚くほど蔓延しているように思う。たとえば

  • アメリカ大統領選挙。多くの候補が、「配管工のジョー」とか、少女とか、退役兵とか、様々な個人を取り上げる。彼らのストーリーは何かしら共感を呼ぶようなもので、演説者は往々にして、彼ら個人のストーリーをさりげなく「ジョーのためにも、XXXすべきではないか」等一般論・政策論に広げてくる。XXXという政策に説得力を持たせるためのツールとしてジョーや退役兵を利用している。

    得てしてこういった場合、XXXという政策は、ジョーや少女には有益かもしれないが、それ相応の副作用もはらんでいるし、下手すると「ジョーには有益だが、その1万倍の人数の人に副作用がある」等国民トータルで見るとマイナスである可能性すらあるのだが、配管工のジョーという共感を集めやすい個別事例を用いてパワフルに突撃してくるのである。
      
  • 多くの日本の組織で、人事政策は、AさんBさんという「顔の見える個別の人への共感」によって何かしら歪められている。その結果、実際に遂行される人事政策は、常に何かしら最適な人事政策から乖離している。このときの意思決定者は、組織パフォーマンスの最適化に責務があるにもかかわらず、実は「共感により形成された、AさんBさんを慮る自己の感情を充足すること」を目的として意思決定してしまっている可能性がある。
      
等。この、「組織全体、あるいは結果の最適化のために冷静に行う判断」とは反対に「組織や結果に責任を負うべきはずのリーダーが、無意識のうちに、共感や同情に流され、感情に突き動かされて非合理的な判断を行う」ことを、自分は自己満足シンドロームと勝手に呼んでいる。

本書内のエピソードでも、以下のような強烈なものがある。
筆者ととある女性教師(だっと思う)がとある慈善行為について議論していたときのこと。筆者が「その慈善行為がかえって受益者のためにならないのではないか」と反共感論の立場から問題提起したところ、その相手は
「私がやりたいからやっているのです」と返したという。これは、自己満足シンドロームの人を動かすドライバーが、公益(組織や社会全体のパフォーマンス最適化)ではなく私益であることを如実に示している。


自己満足シンドロームは明らかに組織や意思決定にとって有害であり、リーダーが情に流されて理性ベースの意思決定ができないようだとその組織は非常に危うい。

この症状が危険なのは、多くの組織では意思決定者に物申せる人が少ないからとも言える。
  • ボスの顔色をうかがう

    →ボスにとって耳障りのよいことしか言わない

    →ボスは始終気持ちよくなっており、もともとは合理主義者だった人も、やがて権力の毒に侵され、自己満足シンドロームを発症

    →難しい判断を迫られる局面において、気持ちよさ優先の非合理的な判断がなされてしまう
といった負のスパイラルは、そこかしこで散見されるように思われる。


智に働けば角が立つが、情に棹させば流される

この本を表面的に読むと、あるいはその問題意識を一切読み替えずに読んでしまうと、必要以上に感情や共感を否定してしまい、それはそれでデメリットがあるように感じている。

共感がもつ他人を理解する特性等は、これはこれでリーダーにとって非常に必要なものだ。組織を運営するにあたっても。顧客のニーズをつかむためにも。共感力に乏しいリーダーは、それはそれで非常に危なっかしい。

他方で、ここまで縷々述べてきた通り、共感をメインドライバーとした意思決定は、これは非常に危なっかしい。共感力をもちつつも、意思決定は共感から距離を置き、冷静に理性をもって行う必要がある。

そういった「脱・共感ベース判断」「自己満足シンドロームからの脱却」のために有効な手段にはいくつかのものがあるように思われる。

  • 自己満足シンドロームというコンセプトを自覚する・・・心理学や意思決定上のクセの9割に対する処方箋として有名な「自覚せよ、されば問題はほとんど解決する」というもの。意思決定の都度、人に生じうる自己満足シンドロームを思い出し、深呼吸の上で理性ベースで意思決定を行うことが有効であろう。
      
  • 集団で意思決定する・・・意思決定者が一人だと、その人の自己満足がどうしても重視されてしまうので、集団で決めることで各人の感情を可能な限り意思決定から除去するもの。
    このとき、集団といっても、親分と子分の2人で判断してしまうと結局忖度メカニズムが機能してしまい「親分が気持ちよいと感じるような判断」に流されがちなので、ダイバーシティをもった集団で決めることが非常に大事になる。社外取締役のミッションの一丁目一番地は、会社の事情に精通することというよりも、自己満足シンドロームにかかっている社長に冷や水を浴びせることとも言えるのではないだろうか。
      
  • Devil's Advocate・・・感情の影響力を軽減するため、誰かが確信犯的に悪魔の代弁者となり、耳に痛いことを言い続けることも有用であろう。