2013-02-24

知的自由

ものすっごく大雑把な話になってしまうが、この世の中で残念なことといえば、自分の妄想世界の中で独りよがりに構築された歪んだレンズでものごとを見てしまうことだと思う。

ファクトベースの冷静な判断ができない。比較考量による分析ができない。そういうのはまあ正直仕方ないと思う。にんげんだもの。でも、問題なのは、自身がそんなレンズをもっていることに気付けない人。歪んだレンズを通して見た歪んだ価値観に基づき、他人とは到底共有できないようなトンデモロジックを展開する人。相手は良くても混乱するし、悪いとあなたを軽蔑するだろう。

自分はレンズをもつことそれ自体はまったく否定しない。この複雑な世の中、レンズなしに全てを虚心にうけとめて全てをゼロベースで考えていてはまったくスピード感が足りない。何らかのレンズをもち、そのレンズを使って仮説を立て、その仮説をぶつけて、それを検証する...という仮説的思考は渡世に不可欠なものだ。

自分が問題視するのは、レンズを使うことそれ自体ではなく、自分がレンズを使っていることに無自覚的な人だ。レンズを使っているにもかかわらずそれに無自覚的だと、①相手に対し無邪気に(無神経に)偏見に基づいた独りよがりの理論を展開して相手を困惑させる②自身のレンズが変なことになってないか検証することをしなくなるので、レンズのリファインができず、結果としてレンズがどんどん曇ってくる。

見たもの・聞いたもの・感じたものをベースに、直感に頼り、何らかの判断をすることは否定されるものではない。でも、そういった直感で出てくるものはあくまで仮説であり、それに無自覚的だと、結果的に予断をもった判断をしてしまうことになる。

自分のもつレンズを意識し、それが仮説に過ぎないことを意識し、必要に応じて修正を厭わない態度。そのような態度こそが知的自由であると思う。

経済的自由を獲得することもそれなりに大変だけど、知的自由を手に入れることは本当に難しい。でも、知的自由は、自分が一生かけても模索する価値がある、尊いものだと思う。だって、自分がレンズ使ってることに気付いている人なんて本当に一握りだもの。。