2012-08-12

一山超えて

自分がかかわっていたプロジェクト2つが両方ひと山越えた。最後はなかなかギリギリになってしまい、毎晩夜更かししてしまっていたので、まずは終わったその日は帰宅してすぐさまバタンキュー。

留学前も、留学中も、ワークライフバランスとか効率とかそういったものを大事にしていたつもりではあったが、なんというか、ここに来てその辺がすっかりグダグダになってしまった。家族とは朝に軽く挨拶するだけで、その後は仕事仕事仕事。というか家にもPC持ちこんでメールメールメール。おそらく、こういう「本当に忙しいとき」においてこそ、その人のワークライフバランス的哲学が試されるのではないかと思うのだが、そういう意味では全然自分は駄目だった。家族に甘えてダラダラと仕事してしまった。

それにしても、毎晩毎晩みっちりと仕事していると、どんどん視野が狭く深くなっていき、スペシャリスト的な発想に傾いていく。それに伴い、どんどん、大局観を見失っていく感覚があった。ひとつのプロジェクトでは自分は資金調達を担当したのだが、毎晩遅くまでドキュメンとかテレカンとかばかりやっているうちに、自分にとってはこのプロジェクトは投資ではなく資金調達のプロジェクトであるような矮小化された感覚になっていた気もする。なので、そういうことをみっちりやってスペシャリスト的発想に触れる前にMBAに行けていたというのは、割と良かったのではないかと感じている。

でもまあ、これで一段落したので、とりあえず向こう一週間くらいはその余韻に浸りつつ、本件で得た学びみたいなところを整理することができればと思っている。

2012-08-11

膝を突き合わせて

とある仕事にて、関係者一同で膝を突き合わせて長時間にわたり語り合う機会があった。

そのこと自体、「取引先の、財務ラインのみならず事業部の方も含め、財務の話のみならず経営全般の話をトコトンやりたい」という自身の夢の一つが叶ったということであり、大変満足するものであった。しかし、そこで取引先とか「会社の同僚だけどこれまであまりじっくり話したことはなかった人」とかと話すことで得られた学びは大変に大きく、自分にとってものすごく貴重な時間となった。なので、以下に、業務上支障がない程度に、学びを記録しておきたい。

※ちなみに上に夢と書いたが、留学を終えた現在において、自分のCareer short-term goalは以下のようなところ:
・融資して財務上の問題解決に寄与するというよりも、投資して経営全般の問題解決に寄与したい(特にガバナンス)
・カネを貸す側でなく、借りる側に回ってみたい
・財務ラインのみならず、CFO、COO、事業部門長等含め経営陣全体と経営全般にかかる話をしたい
・帳簿を定期的に見せてもらうというより、事業全般のPDCAサイクルを見るような包括的なモニタリングがしたい
・案件の全般にわたり各種プロフェッショナルと連携することで、「プロの洗礼を受けた上で行われるプロレベルのディール」を仕上げたい
・IPO等を実現することで、Exitのトラックレコードを作りたい
・十分なIRR等投資パフォーマンスを達成し、ウハウハ言いたい
・案件が案件を呼ぶ、という状況を生み出してみたい


以下、感じたこと

● どんな会社にもマイナスの何かは存在する。何か欠点が存在するからといって、それは直ちに勤務先を見限ってよいということにはならない。欠点が、他社と比較して相対的に大きいということが確認されて初めて勤務先がイマイチといっていいことになる


● メンバーが責任を負った立場にありながらも「自分の言葉」でものを喋ることができる企業は強い。自分の言葉を持つハイレベルな幹部がいるという点においてもそうだし、議論の自由がある企業文化という点においても。


● ダイバーシティは、本当に強力。異なるバックグラウンドの人が交わることで、
①純潔主義では往々にして温存されてしまいがちな「組織としての欠点」みたいなところが洗い流される
(まるで、流動性のある市場ではミスプライシングが長期的に保たれることが少ないように)
②「歴史」の重要性が多かれ少なかれ希薄化することで、属人性等への依存が緩和し、官僚制がより有効に機能するようになる
③身内びいき・外様冷遇ではやがて組織が回らなくなるので、否が応でも、フェアな方向に処遇が進む。
もちろん、ダイバーシティの欠点もないとは言わないけど、今の日本企業の多くは、差し引き、ダイバーシティがあった方がプラスになるように思う。


●上に関連するが、純血主義の致命的な欠点の一つに、
・自らの誤り・弱さ等を認められずに、何か臨まない結果が生じた場合、自分(達)のせいにせずに他人に原因を求める
という傾向があるように思う。異なるバックグラウンドからのチャレンジがないので、「悪いのは俺ではなく、外部のアイツだ」という理屈がそこそこ正当性を帯びてしまうのだ。もし組織がダイバースあるいは流動的であれば、第三者による客観的な批判が生じるので「俺は悪くない、悪いのはアイツ」問題は生じない。
これは、自分がこれまで所属した複数のグループで生じた問題であることから、ダイバーシティなき組織に共通した問題なのだと思うに至っている。
自分は経験上「手柄は他人のおかげ、ミスは俺のせい」という発想が一番マシであると信じているので、上記の発想に触れるとアレルギー反応を起こしてしまうわけ。


●どんな組織も、企業文化というか、発想(あるいはパラダイム)が共有されているところがある。

たとえばサントリー。「やってみなはれ」という言葉は、おそらくかなり深くメンバー各人の精神に刻み込まれていると推察される。なので、(実はサントリー勤務の知人はいないので確かなことは言えないけど、)同社社員が何か難しい状況に直面したら、多くの人が「おーしやってみるぞ」という思考をするのではないだろうか。

このようなパラダイムの共有は、①一種のヒューリスティックであり組織としての決定のスピードが速くなる②隣のアイツも同じことを思ってくれるだろうと確信できることは、コトを進めるにあたり支えになるというメリットがあると思う。

ただ、こういったパラダイムの多くは、100%合理的で絶対的に正しいものであることはまずない。むしろ、同じくらい正しく思われる代替的なパラダイムが存在するからこそ、パラダイムの共有が図られていると言っても過言ではないのではないか。たとえば、「石橋をたたけ」というテーゼは、客観的には「やってみなはれ」と同じくらい強いメッセージであり、石橋をたたく企業文化の組織があっても全くおかしくないと思う。つまり、サントリーは、あえて「やってみなはれ」方面に偏向し、石橋をたたけ方面から離れていると解釈できるのではないか。すなわち、企業文化とは偏りなのだと思う。

そういった偏りがプラスの力につながりうる以上、そういったパラダイムが害悪だとは思わない。ただし、自分達がそういった発想に「囚われている」ことに自覚的になることには、結構意味があるのではないだろうか。自分達を良くも悪くも無意識に縛るパラダイムを、何らかの形で意識上に浮かび上がらせる作業。変革期に求められるのは、小手先の対策より、この「パラダイムの可視化」なのではないだろうか。

で、そのためには、PE投資等によるガバナンスの抜本的変更やメンバーのダイバーシフィケーションが有効なのではないかと思っている。メンバーが同じ物語を見ている間は組織は変われない。異物を入れることで「物語の脱構築化」をすることが、シンドイけれども重要なのではないかと感じている。
※「物語」とか言い出すと村上春樹病みたいでアレだけども

● 「きっちり聞いて、消化する」「拒絶する」というのが議論とか意見交換の基本パターンだが、「とりあえず聞き置いて、心の戸棚に入れておく」というのも、それはそれでアリなのかなと思うようになってきた。とりあえず留保しておいて、後日何か新しい情報が入ったときに改めて検討することでようやく解決できることもあるわけだし。

●その辺のラッパーさんではないが、家族とか親友とかではないビジネスパートナーとの人間関係は、リスペクトが基本となるべきであろう。相手の話の些末な一部を鼻で笑うというよりは相手の話の中から良い面を掴み取ろうとする姿勢、相手を叩き潰すのではなく相手と共に新しい価値を見つけ出そうという姿勢。様々な他人と交わり合うことで価値を作る仕事に従事するのであれば(投資業とかはまさにこれ)、Respect-orientedでない人はかなりマズいと思う。
※絶対的な真理というよりは、偏った話で、上の議論でいうと立派なBiased paradigmなんだけど^^

とか。多分事情知らない他人の方が読んでも殆どピンとこない話ばかりだが、何しろこのブログは自分の備忘用100%なので、よしとさせていただく。。

2012-08-10

ネゴシエーション再訪

以下、ネゴシエーションについて自分の思っていること。

・ネゴシエーションの本質は「ネゴらないこと」であり、いかにネゴ手前で有利な状況を作るか

・戦わずして勝つためには、競争戦略の発想が重要。相手方を常に複数キープしつつ、自分の希少性を高めるのが鉄則。

・ネゴの鍵はBATNA。「ここから先は一歩も引けない」というポイントをいかに高くもつことができるか。多くの場合、人は自分のBATNAを過小評価しがち(例:実はブレークしても問題ないのに、ブレークだけは回避しなくてはならないと勝手に自分を追い込み、不必要な妥協をしてしまう)。BATNAを改善するヒントは①相手方を複数もつ②柔軟な発想。

・「取っ組み合ったあとにいかに相手を押し切るか」というのは、交渉論ではなくてただのケンカ論。その場の口先八寸、嘘、ハッタリ、脅し、ながめすかし、暴力、そういったものは交渉のテクニックとは言わない(多かれ少なかれ大事だが、こういったものはあくまでサブであり、これらをメインテクニックと思うのは陥りがちな罠の一丁目一番地)

・ゼロサムゲームになってしまったら、やるべくは、「落としどころである『somewhere between my BATNA and your BATNA』」。両者が「取っ組み合いになってしまった以上、0や100は無理だから、50周辺の良い落としどころを探そう」という発想で行う交渉は有益だが、いずれか一方でも「よーし、気合入れて100取りに行くぞ」とか思ってしまうと交渉には無駄な時間やコストがかかる。ベストを追及するのはネゴ手前の戦略レベル・舞台設定の段階まで。ネゴに入ったら、そこからやるべきことは「落としどころの発見」。

2012-08-09

My personal perspective

最近思ったこと。あくまで自分の個人的な意見であり、正しいと言うつもりはないけれど。

● 自分はなんとなく「留学にいくなら若いうちの方が良い」という印象を持っていたのだが、その主要因として思っていたのは、留学先での同級生の平均年齢が若いから仲良くやっていくには若い方がいいのかもしれない程度のものであった。

でも、帰国して多くの人-留学した人も、留学していない人も-と話すことで、もう一つの論点があるように思うようになってきている。すなわち、ひとつの会社だけでずっと単線的・継続的にキャリアを重ねることに伴うリスクというものは、思ったよりもずいぶん大きいのかもしれないということ。

すなわち、
・留学するまでに過度に「自分の型」みたいなものができてしまうと、留学先では学習・吸収というより「自分の型が間違っていないことの再確認」みたいなことしかできなくなる
※Confirmation biasがあるので、自分の型が徹底的に否定されるようなことがない限り、多少の摩擦程度ではできてしまった型は揺るがなくなってしまう
※もちろん、自分と異なる発想を素直に吸収できるOpen mindがあれば、何歳でも問題ないとは思うけど、見てる限りでは、特にずっと同じ会社の同じ部署で同じ仕事している人とかでこの手のオープンマインドを保持できている人は多くない印象

・留学とか転職とか、何かしら環境を変えることをしないと、どうしても自分の型ができてしまい、理想ではなく、現実とか経験といった視点でものを見てしまう。
※しかも、その発想は、たまたま若いときにいた部署で培われたものに過ぎない。隣の部にいたらまた別の思考回路に染まっていたことになる。そういう「居場所による思考回路の定着」というものは当然あって然るべきだけど、それだけではなくてある程度理想オリエンテッドの発想も兼ね備えていた方が良いのではないかというのが自分の立場


なんというか、留学の価値は、英語もそうかもしれないし各種理論とかもそうなんだけど、「キャリアの貴重な1~2年間を既存の文脈から切り離すことで、職場の色とか文脈とかから独立した中立的/ゼロベースな発想をもつことができること」というのがかなり大きいのではないかと思うようになっている。


「ウチの部は●●って点において特殊だからさ、君のいうような話はワークしないのよ」とか他者の自分におっしゃるオトモダチとか、「留学はしたけれど、●●は案外たいしたことないじゃん」と語る留学先での知人とか見てると、そういう「現状が正しい」という前提に立って物事を虚心に見ることができてないコメントに触れるたび、留学から戻りたてでそういう「文脈」を殆ど何一つ持ち合わせていない自分は、面食らうと同時に、ついつい「でも正直、こういう文脈はどちらかというとイラネ」と思ってしまっている。

2012-08-08

選択的性善説

最近、どえらく性悪説的立場な方にお会いすることがあり激しくモヤモヤしたので書く:

世の中はどうか知らないが、自分がこれまで在籍した部署や、その内外での尊敬できる人は基本的に性善説であったと理解している。そして、留学先においても、カリフォルニアという土地柄なのかもしれないが、友人は皆性善説であったと感じている。なので、当然、自分も性善説を強く信奉している。

でも、もちろん、性善説には落とし穴がある。もし裏切りや駄目な奴が現れてしまったときどうするか?という問題だ。そこで性悪説に転向する人も少なくないだろう。しかし、これまで会ってきた人の多くは(特にアメリカ人同級生は)、以下の要領にて性善説をキープしているように考えている:

・基本的には性善説で、仲間が最後にはうまくやってくれること、変な裏切りは起こらないことを前提として信頼関係を大事にして日々を暮している

・万一裏切り者や、頑張ったけどできなかった人が出てきたとき、ここでは結構驚くくらいばっさりとその駄目だった人のことを切り捨てる。

・で、残された人々の中で、引き続き性善説でやっていく。


こういう傾向は日本でも多かれ少なかれ色々なところであると思うが、自分はこの発想が嫌いでないので参考にしている。なので、性悪説の立場からあれやこれやについて苦い顔をしている人を見ると、ついつい色々なことを言いたくなってしまったりするのだが、結局何も言えず、こういうところにグダグダ書くことで溜飲を下げている次第。。

2012-08-07

留学ズレ?

帰国してもう1か月以上が経つ。基本的にはうまく折り合っていけていると思ってはいるが、とはいえ要所要所で「自分の中のアメリカ的なところ」と「日本で会う人がもつ考え方」がうまく折り合わないときもたまにある。それが、日米の考え方の差なのか、あるいは単に自分がずれているだけなのか、よくわからないけどいずれにせよ書いてみたい。まあ留学帰りの若者の中二病書きなぐりとでも思って頂ければ:

楽しんじゃアカンのか?


帰国以来、「留学どうでした?」とか「仕事どう?」といった質問をもらうことがあって、自分は当初どちらの質問に対しても「とても楽しいです」「とても楽しかったです」と回答していた。

しかし、どうも、その回答をすると、相手の顔色が曇ることが多い。人によっては怪訝な顔をして「ま、ゴルフとか旅行とか楽しかったかもしれないけど、一応勉強しに行ったんだから、その辺気を付けなきゃならんよ」とか説教してくる人もいる。

自分としては、別にゴルフも旅行も楽しかったけど、何よりメインイベントの勉強が死ぬほど楽しかったわけで、別に「本業は苦痛だったけど余暇は楽しかった」という意味で楽しかったという言葉を使っているわけではない。本業が楽しかったからこそ楽しかったと言っているのだ。

でも、どうやら自分が話した多くの人にとって、「勉強→苦労」「楽しむもの→余暇」みたいなヒューリスティックというか固定観念というかがあるように思う。勉強をしに行った以上、それが楽しいなどということはあってはならず、当然「タイヘンでした」という回答が望ましい...そんなところかな?

でも、日本においても、自分の知る多くの「いろいろうまくいっている人」って、その人が取り組んでいることについて楽しめていると思うのだ。東大生の多くは勉強を好きそうだったし、仕事が好きそうなスゴイ先輩とか多いし。「好きこそものの上手なれ」という言葉もある。なのに、その一方で、勉強が楽しかったといってもその言葉を字面通り理解してくれない人がいるというところは、結構気になっている。


「やらないこと」を決めるのは罪なのか?


自分が留学で得た重要な発想の一つは、「得意分野に集中すること」である。さらに言えば、「得意でないことについては、アウトソースするか、手を出さないか、何らかの形で『やらない』という意思決定をすべき」と考えている。

・自分のできること・得意分野を見極めて
・取れるリスクと取れないリスクを見極めて、
・取れないリスクは徹底的に回避しつつ、取れるリスクへの対処に専念する
・その上で、取れるリスクについては、然るべき準備をした上で、果敢にリスクテイクする

すなわち、「いいボールが来たときには全力でバットを振るべし。悪いバットが来たときにはバットを振るべきではない」ということを考えているのだが、これも結構ちょいちょい摩擦を招きがち。なんというか、「ちゃんとボールを選ぶべき」という肯定的な言い回しレベルではほぼ確実に合意を得るのだが、「それはすなわち、悪いボールは バットを振ってはいけないということですよね」と裏返しの聞き方をした途端に怪訝な顔をする人が少なくない。

特にあるのが、既に積み重ねられたものがあるとき。「望ましい方向に進むためには既存の資産等を捨てることが望ましい」と言う話をすると、「前には進むべきだが、既存の資産を捨てるのは良くない」というレスポンスが多い。自分としては「前に進む=既存資産を捨てる」くらいのイメージでいたので、既存資産を捨てることなく前に進もうぜという意見を聞くと結構混乱する。

自分としては、「やること・やらないことを決めて、やることを決めたらあとは一心にその成功めがけて突っ走る」というのが良いと思うのだが、どうも自分の発想の「やるべきでないことはやらないべきである」というところが「後ろ向き」「へっぴり」「弱腰」というニュアンスに見えてしまうようでなかなかスムーズにはいかない。

そして思うが、きっとあらゆる組織には、多かれ少なかれ、上記のような「既存のものを基準にする発想」「とにかく前へ」みたいな慣性が存在しているのだと推察する。であればどんな組織も不可避的に「慣性の澱」のようなものを蓄積せざるをえない。この命題が正しければ、バイアウトによる事業改変には本質的な価値があるということが言えると思うので、すなわち自分がこの方面に感じている大義心のようなものはそんなに間違っていないんじゃないかと。慣性に従ううちに蓄積した澱を除去できるのは、客観的な立場に立った投資家である可能性が高いからだ。

※でも、この手の「前に行くためにこそ、●●を捨てましょう」的議論は、留学先の日本人にも全然受けなかったので、(1)自分の言い方が悪い(2)留学とこういった発想は特に関係ない という可能性も存在するが。

燃え尽き?

仕事がなんとなく楽しいのであまり気になってないのだけど、冷静に考えて、会社と家の往復モードになってしまっていて。往復の間も寝るか日経新聞アプリで読むかFB見るかゲームするかくらい。

趣味のゴルフはいまだ再開せず。腰が痛いと言うこともあるが、わざわざアメリカの倍の時間・カネをかけてまでやりたいかと言われると...といった状況で踏ん切りがつかない。

なので、最近は遊びと言えばもっぱら友人知人との飯。お前はOLかと。

思えば、これまでは1・2年ごとのペースで、大学卒業→転勤→結婚→妻妊娠→出向・転勤→子育て→留学準備→留学って感じでばたばたしていたので、「向こう当面何も起きることはなさそう」という状態になったのはたぶん7年ぶりくらいで、そして転職でもしない限り何か起きる見込みもかなり低く、もしかすると目的を見失って燃え尽き症候群なのかもしれない。

帰国後最初の3か月間はあまり深いこと考えず流れにまかせて...とか思っていたが、いまのところ、その「流れ」とやらはあまり早くない感じ。偶然仕事が面白いので、ついつい「ま、いっか」と思ってしまっているが、その一方で「これで大丈夫かしら...」という思いもちょっとよぎっていたり。
※仕事も、言う人に言わせれば、たぶん全然大したことないのかもしれんが。。

これまでの人生の経験則に照らせば、そろそろ自分の中の何かがふつふつと沸きだしてきて何か動きが出てくるんじゃないかと思うけど、とりあえず最近はそんな感じで、やることがないことをいいことにせっせと仕事している毎日。

2012-08-06

決め方のクセ

仕事というのは、煎ずれば、意思決定であると自分は思っている。

別にどんな言い方でもいいが、合意・反対・代替案提示・受諾・内部調整・妥協・裁量・取捨選択・打診・謝絶・交渉・妥協・ブラフ...こういったものは全て意思決定である。仕事というのは、要するにこういった意思決定を積み重ねていくことであって、ボスから係員までが全員で、「ボールを受け取る→何らかの分析等→必要に応じて作業→意思決定→ボールを他人に渡す」というプロセスを無限に繰り返すものであると思う。
仕事の本質が意思決定であるという自分の意見が正しいのであれば、パフォーマンスの優劣は要するに意思決定の優劣に他ならないと言ってよいと思われる。

で、より良い意思決定のためには、以下のような要素が重要となる:

①スピード・・・1日で決定できる組織と1週間かかっても決定できない組織であれば、おそらく前者の方が優れたパフォーマンスを残すのではないか
※後者が、1週間じっくりリスクの洗い出しを行っていて前者がそれをさぼっていたということであれば話は異なる。しかし、同じリスク評価を1日でやるのと1週間でやるのでは1日でやる方がいいという話

②分析・・・質・量ともに十分な分析をもとに行う決断と、ところどころに煮詰め切れていないポイントが残ったまま行う決断では、やはり前者の方が好結果につながるだろう。
※これも上の議論と同様、スピード等、分析以外の要素は所与としたときの議論

③意思決定構造・・・オフィシャルには決裁規定、アンオフィシャルには役割分担。「このレベルの議論は誰がやって、このレベルは誰」ということが明示的非明示的に鮮明であるほうが、意思決定はうまくいくことが多いと思われる。そのイシューについて裁量権のない下っ端が好き放題なことを相手にコミットしてしまう組織や、大ボスが詳細まで気にして一向に話が進まない組織は、やっぱりちょっと頼りにならなそう。

できるだけ充実した分析のもとにスピーディに判断を行い、しかも適切な過不足のない役割分担ができていれば、その組織は強いと言っていいと思う。


ここまでは留学前から思っていたことで、ここからが留学後の最近思っていること。
上記のように、仕事における意思決定は非常に重要なのだが、そんな意思決定における「個人差」にももう少し注目したほうがいいのかもしれないと考え始めている。

多かれ少なかれ、誰もが、その意思決定に個人的なスタイルを持っている。
人によってはその違いに優劣を付けたがるかもしれない。自分も実は留学するまで「センスある人、ない人」が存在すると考えていた。

でも、なんというか、結局のところそこに存在するのは違いだけで、優劣ではないのかも...ということを思っている。
なんでも今すぐその場で決めたがる人もいれば、できるだけ判断を留保してギリギリまで粘りたい人もいる。自分一人で決めることに喜びを見出す人もいれば、皆で合意形成することに納得感を得る人もいる。

繰り返しになるが、これらのスタイルの違いを優劣と見るか単なる差異とみるかは人によって意見が異なると思う。ぶっちゃけ自分も、いまだに時々は飲み会とかで「あいつはよぅ...」とか愚痴る。さはさりながら、少なくとも仕事をしていく上での実際的なところとしては、「そこにあるのは違いだけ」というスタンスが有用なのではないかというのが最近思っていること。「あるのは違いだけ」というスタンスで虚心にチームメイトの意思決定における癖を理解しようとするのがいいのではないだろうか、そんなことを最近思っている次第。「あいつの思考回路はイケてない」とイライラしても、多分その人の思考プロセスを変えるのは極めて困難である以上、「理解して、対応する」というスタンスに切り替えるのがいいのではないか。そんなことを思っている。

※人はこれを「おっさんのサラリーマン化」「空気ばっかり読みやがってつまらない大人め」と呼ぶのかもしれないが、、、

※もちろん、いくばくかは優劣も存在するとは思う。たとえば、意思決定それ自体を倦厭している人とか。そういう人が最後の最後まで判断を先送りして、最後選択肢が限定された状況でエイヤーでテキトーに判断するのを見たりすると、「ちょちょっ」と言いたくはなる。「意思決定するぞ」という前提が共有されている限りにおいては存在するのは優劣だけだけど、「え、意思決定しなきゃだめ?」という人はやっぱり多少見劣りする。

2012-08-05

サンクチュアリ

留学中の猛勉強()で燃え尽き気味であり、小難しい本に食傷気味で、思い切り漫画とかを読みたい気分。ということで、ブックオフで『サンクチュアリ』をそこにあった8巻まで大人買い~。

一冊100円で、家のゆったりした環境でだいたい1~2時間はこの読書にあてる。2時間800円としても、なかなかコスパの高い遊び(しかもすぐ売れば一冊あたり10円くらいは戻ってくるのでは?)。

こうして読み返してみると、幼少時には読み取れていなかった各種メッセージみたいなものに結構胸が熱くなるので、その一部をメモ


「同じ夢を見たかった」


途中から合流した香港の黄。行動を共にしつつも、どうしても仲間を信頼しきれず、北条を撃ってしまう。で、最終的には死んでしまうのだが、部下だか仲間だかに残した最後の一言が北条たちに向けた「できればもっと早くお前たちと出会いたかった、そして、同じ夢を見たかった」というもの。

これを見て、自分が留学先で手を変え品を変え叩き込まれた「Play the same game」という言葉を思わずにはいられなかった。投資家と経営者、経営者と従業員、等々、ビジネスを成功させるためにはステークホルダー全員が同じ方向を向いていることが非常に重要であり、インセンティブのズレが生じないように人事制度や報酬制度などを設計すべきという考え方。留学先で叩き込まれて以来、Play the same gameが重要であるという考えを強く持っている自分であるが、どうやら甘かった、同じゲームどころか、同じ夢を見なくてはならなかったか...

夢を見ると言う話、半分冗談ではあるが、半分本気で考えるべきであろう。仮に自分が投資家や経営者の立場で皆のインセンティブをそろえる立場になったとしたら、小手先の人事制度設計だけ人事コンサルを雇いつつやればいいという話ではない。自分が自らを洗脳するくらいの勢いで、関係者全員に心からの言葉で思いを共有せねば成功はこころもとない。なんというか、最終的に全員の夢がそろっていなくても事業は回ると思うが、「全員の夢を揃える」くらいの意気込みで臨まないとPlay the same gameも難しいかもしれない。


「俺はもう引退く(ひく)」


北条達の攻勢をみるなか、神戸山王会の3台目トップは自身の老いを感じ、早いタイミングで引退しつつその地位を4台目の若い人に禅譲した。

この事例は興味深い。よく日本では老人ばかりが上にいて新陳代謝が悪いとかリーダーシップがどうとかいう話になるが、これは結局のところ、その組織に危機意識がないからと言うことなのだ。神戸山王会組長という最高権力者であってさえ、組織の危機を感じ、自身がその局面における最適任者でないと感じるや否や、多少のためらいはあっても実にスピーディに地位禅譲を行っているのだ。

ということで、サンクチュアリ的世界観が正しいとすれば、今後の日本の企業や政界においても、本当の危機に際しては、あまり心配せずとも、適切な形で年齢や性別など一切不問で最適任者がリーダーに選ばれるのではないだろうか。いまがそうでないのは、単に組織に危機感が足りないからではないか...という感想。

2012-08-04

プレゼン

MBAでみっちり学んだものの一つでためになったものの一つがプレゼン。

・メッセージはシンプルに
・プレゼンの構造を明確に
・掴み、概要頭出し、総括、気のきいた締め等

しかし、帰国してから今日までにいくつか金融系のプロフェッショナルのプレゼンテーションを聞く機会に恵まれた結果、多少、というか結構、「ま、やっぱ、MBAで学んだものをそのまま使うのはムズいよね」という感覚をもっている。

MBAで学ぶプレゼンは、今思うと多かれ少なかれ、「自分の話に興味を持たない人をどう引き込むか」という飛び込み営業的・ベンチャーキャピタルへのピッチ的な文脈で設計されていたと思う。そのため、重要となるのがインパクトや完結性、繰り返し等によって内容を相手に「刷り込む」こととなる。

日本でも当然そういったシチュエーションは多い。ざっくり、プレゼンテーションの8割はそういった「もともと無関心だった人に、あの手この手で興味を持たせるための初期的プレゼン」なんじゃないかと思うが、そういった初期的プレゼンでは上記のような手法がそのままバッチリ役に立つ。

でも、なんちゅうか、ビジネスのより濃いエリアで行われるプレゼンは、ちょっと状況が異なるんだと思う。聞き手は既にプレゼンターの提供する商品(サービス)に対して強い関心を持っており、粗方理解までできている。だが、例えば購入候補としてA・B・Cと複数商品があって決めきれていなかったり、細かいところで不安なところがあったりして、粗方理解しているにもかかわらず購買に結びついていないという「もうちょい」という状況。

売り手もそれを承知している。そのため、自然と、フォーカスは「関心を惹くこと」等の初期的なものから「100%納得してもらうよう説明を尽くすこと」というよりヤヤコシイところに遷移する。

その結果、プレゼンは、なんともまあメンドクサイ高度なものに姿を変える。

・当日の配布資料は、「1ページ1図表」みたいなインパクト重視のpptというより、説明を尽くした文書や、詳細な比較表になっていく

・起承転結は崩壊し、開始早々質疑応答の嵐となる。質問する方も、なまじ愚かな質問をしてしまった日には売り手になめられるので、よく練った鋭い質問をどんどんぶつける。なにしろその商品に基本的に関心があるので、質問にも自然と力が入るのだ。

・「ここから先はトム、次はジョン・・・」みたいな無意味な役割分担も崩壊する。戦略レベルの高次な話題はMD、実務レベルのマニアックな話はアソシエイトあるいはVPといった感じで、プレゼンもチームの総力戦となり全員気が抜けなくなる。質疑の応酬のなかで、全員が瞬時に「この話題について最適なのは俺」と判断し、そのプライドをかけて丁寧かつわかりやすい説明を試みる。



って感じ。なんというか、

・「シンプルにインパクト重視で」みたいなMBA的プレゼンも大事は大事だが、それが有効なのは主に初期的営業やビジネスプランのピッチのとき。顧客の関心を0から1にするためのもの。

・でも、世の中のプレゼンの全てが0を1にするためのものであるはずがなく、9を10にするためのプレゼンも重要であり、それは全然世界が異なる。
※もちろん、パーツパーツで役立つ発想や技はある

・BtoB等で顧客をConvinceさせるため、相手の関心を9から10にするためには、詳細な情報、細かいところまで手の届く説明、ボスから作業員までチームでの総力戦、プレゼン前後の丁寧なケアなどが不可欠であり、そこで「0を1にするプレゼン」をしちゃうとしょぼいことこの上ない。

・ということで、なんというか、「時と場合による」って話なんだと思う

2012-08-03

で、MBAって使えているのか

MBAでの学びで、仕事で役立っているもの。
帰国後1カ月の若輩者の速報ベースなので、あくまでご参考まで:

カテゴリーA:ただちに役立っていると思うこと

・英語・・・
どちらかというと読み書き。一応リスニングとスピーキングもほんのちょっとだけ使う機会があった

・戦略論・・・
これが一番かも。ビジネスの競争環境はどうか(プレーヤーの数、マーケットの需給、5 Forces等々のレンズで)とか、あるビジネスのコアコンピタンスがどこで、どこについてはノンコアで外出し可能な要素であるか等、半ば無意識レベルで検証しようとする基本的態度みたいなところは、投資ビジネスでかなり役立っている。勿論留学前もトライはしていたが、今振り返ると、フレームワークを体系的に学んでいなかったので、昔のはいかにも素人くさい。「ものごとがうまくいっていないのは、得てしてその上層レベル、戦略レベルのところに問題があるからだ」的発想も、要所要所で役に立つ

・Back of the envelopeの発想・・・
自分の学校で言うと、アントレファイナンスで叩き込まれた発想。
まだ新規案件が溢れているわけではないので精緻なモデルを作る機会には恵まれていないが、案件になりそうな話について、上司のオーダーに基づきブルームバーグとかでさっとデータを取って、紙と電卓でできるレベル感で粗々の相場観をさっと計算するという作業。学校で「コレとアレを押さえておけば、なんとなくのバリュエーションはできてしまう」といった練習を重ねていたので、こういった「Back of the envelopeで取り急ぎ相場観を出して、必要に応じてその後精緻に検証していく」というやり方は非常に役に立っている。
・「理想を目指すのではなく、現状の制約条件化でとりあえずやってみる」という起業家的発想・・・
これもアントレファイナンスでの学び。ともすれば「この案件は●●といった観点んで戦略的に無理そうだ」「自分達も、●●がやっているような洗練されたディールを模索すべきだ」等、ついつい現状を軽視しつつ理想論ばっかり語ってしまい、結果として何も物事が前に進まず絵空事ばかり言う...みたいな感じに陥りやすい。特に、なまじMBAなんて取っちゃったので、いろんなことがnot so sophisticatedに見えちゃったりしたり。
そんなとき、あの教授から叩き込まれた「現状の制約条件を踏まえた上で、条件付き最大値を目指す」みたいな発想が心の支えになる。理想を模索する前に、とにかく目の前のできることをきっちりやっつける(できれば一工夫して付加価値をつける)イメージは、精神衛生上かなり良い。
・ポジティブな精神・・・
「とりあえずYesから始めてみよう」っていうアレ。具体的に利益とかに繋がったわけではないので厳密には役に立っていないかもしれないのだけど、少なくとも、この発想を大事にしているおかげで、精神衛生上ストレスが少ない気がする

カテゴリーB:自分は目下あんまり使ってないけど、上司先輩等が使っているので、たぶん将来役立つ(ので忘れないようにしないと)能力


・ネゴシエーション・・・
金融機関だと、契約書のやり取り(ドキュメンテーション)にメールや電話をかぶせるスタイルのネゴが多い気もする。また、電話や対面で色々な形でネゴシエーションは起こる。さらに言えば上司と部下の間でもネゴシエーション的なものはあるし。
上司がネゴってるのを目の当たりにしているとき、彼らがどのように状況を把握してどのような技を使って戦っているか、学校でネゴシエーションを学んだ今そういうものを見せてもらうと大変刺激的である。やっぱりしっかりしている人はそれなりに技を使っている気もするので(習わずしてできているのかもしれないが)、ネゴを学校で頑張ったことは少なからず将来のプラスになる木がしている。
ただ、目下、あんまり自分はネゴする立場に立つことが少ないので出番小。

・モデリング・・・
なんちゅうか、そもそも案件がそこまで無茶苦茶たくさん転がっているわけでもなく、案件の検討段階で使うのは上述のBack of the envelopeが主だし、そして案件があってもモデリングとかバリュエーションとかというのは全体工程のなかの1割程度に過ぎない感覚。
※とはいえバリュエーションは大事で、いま自分が勝手に師と思ってフォローしている人々も多くは口をそろえてバリュエーションの重要性を説く。その後のネゴやディールアレンジは本質的な勝因にはなり難いというのが彼らの、そして自分の意見。
ということで、帰国してから一回も、自分で「5期データを取って、それを伸ばして...」的な精緻なモデルは作っていない。まあ多分そのうち使うとは思うのだけど

カテゴリーC:(MBAの学びと言っていいかどうかは定かではないが)役に立っているもの


・できるだけメールを短くするという発想

・コスト感覚・・・
特に機会費用について意識的であることとか。なんというか、効率の鬼になってもいけないのだけど、ある程度効率性を意識するだけで仕事が精神衛生上楽になる
※おかげで残業代がたまらない

・他人への関心・・・
率直に言って留学前はコミュ障に近いところをフラフラしていたと思っており、他人にあまり関心がなかった(関心が自分の内的なところに偏在していた)と思う。でも、なんだか、帰国してからは結構いろいろ友人知人他人と会う機会に恵まれているし、意図的にそれを増やしている自分がいることに軽く新鮮な感じを抱いていたりもする。

・スマイル・・・
これも留学前は超絶下手くそだったのだが、今では「わりと下手」くらいにまでは改善したような。毎日毎日スティーブンとかジョーとかと「Hey whats up man? ニコリ」とかやってたのも案外無駄ではなかったというかかなり役立っている

カテゴリーD: 逆に、MBAのせいで弊害が生じていると思うもの



・キレイな案件が当然、みたいな発想に襲われがち・・・
完全にHBSケースに洗脳されてるんだと思うが、実務で我々が接する殆どの案件は、様々な意味でHBSのケースと比較して「キレイ」でなく見劣りしたりする。やれ戦略的整合性がない、やれ人の素質が、やれバリュエーションが云々。上記「制約条件の中で全力を尽くす発想」というのがなければ、自分はおそらくこの「案件潔癖症」みたいなやつに毒されて、既に転職活動を始めてしまっていたかもしれない。
(キレイな案件を求めて外資とか目指しちゃったりしてたと思う。そして、たぶん、外資にいっても自分が案件のキレイさで満足することはないのだと思う)

・実践主義と金融機関の相性・・・
ベンチャーじゃないので、「やってみなはれ」的発想は金融業とそこまで相性がいいわけではないと思われるが、今の自分はけっこう「やってみなはれ」に毒されており、近い将来のオペレーションリスクとかコンプラリスクとかには気を付けなくてはならない

・VCニガテ・・・
自分の通っていた学校やシリコンバレー等で無駄に耳が肥えてしまった。その結果、日本の、金融マンが技術を理解できないままエイヤーでやってしまっているVC投資にかなり絶望している。自分の会社もVC投資はやっているのでかなりよろしくないのだが、「エンジニアバックグラウンドの人主体のチームで、Googleみたいな生態系の頂点企業があって、(中略)じゃないとVCはビジネスとしてワークしない」とか「VCは捨て金でやるべき一種のクラウドファイナンスとみるべきだ」とか、そういう極端なことを考えてしまいがち。本来は、そんな日本のVC業界でどう頑張ろうかなぁという発想を持つべきなんだろうが(ってVCが仕事じゃないので必要ない発想なのかもしれないが)

2012-08-02

作業が楽しいのも考え物

・今週は忙しさのちょっとした山場。あれやこれや、他人に投げていたボールがドンドコドンドコ自分に戻ってくるタイミング。

・日経iPhone版にすっかり慣れてしまい、もう紙の新聞には戻れない。と言いつつも電子書籍はニガテなんだが

・体力をつけるべく、昼に会社を一人で抜けて懐かしの本郷三丁目「せさみ亭」で大好物酸辣麺を. 黒酢やら刻みネギやらがふんだんに入ったヘルシーメニューを食べて心の給油。いつか、新橋と虎の門に間くらいにできたという第二店舗にも顔を出してみたい

・今日は結構社内調整というか、稟議書作成に時間を費やしてしまった。前例参照しつつ、社内の決裁規定を見て「うーんこれは○○部も入れないといかん」とか「うーんこれは3.5条でも4.3条でも読めるが、保守的にハンコがたくさん必要な後者にしておくか」とか。

この手の仕事が厄介なのは、①けっこう大事②あんがいやり出したら面白い、ということ。もちろん付加価値の高いことを中心にやれればベターだが、そういうのはなんだかんだ言ってこういった基礎的作業をベースとして成り立っていて、ここを馬鹿にすると高次に進めない(という自分の考え)。また、決裁区分の表や前例をなぞる作業は、パズル的な意味で知的刺激が案外けっこうあって、携帯電話でのゲームではないが、やり出すと結構止まらない。こういった仕事が単純に不快・苦痛であればまだ話は簡単なのだが、「ある意味面白い」ところに深刻な罠が存在している(ほんとかな)。

とはいえ、こういった基礎作業は基礎作業。完璧にこなさないとアカンものの、ここでエクスタシーを感じていてはマズい。なるべく効率的にやっつけて、次のステップに進みたいものだが、なんだかんだで今日ものっぺりと一日が終わった...

2012-08-01

やりがいの所在

ちょっと仕事を再開してみて、「仕事が楽しいかどうかとかの分かれ道って、このへんかなぁ」と思うところを列挙してみる:

案件の大きさ


新規案件か、既存案件の管理か(既存案件なら、何かしら面白くなるようなプラスαが欲しい)

案件意義への共感


利益でも、戦略的意義でもなんでもいいけど、そこに共感できるとモチベが上がる。この案件やって意味あるの?とか疑念を持ってしまうとちょっとエンジンのかかりが悪くなる

自分の役割

自分の担当領域がそれなりに広かったりハイレベルな領域だったりすると嬉しい

裁量余地

たとえ雑用だとしても、そこに自分の裁量で決められる領域があるなら楽しい

案件頻度

成長期と考えているので、できればバンバン数をこなしたい。案件があまりないと、ちょっと焦ってしまう

ハイレベル工程への関与

たとえカバン持ちでも、トップ会談とかに参加して大局のうねりを目の当たりにできるとモチベが上がる

精神的余裕

余裕が100%だとそれはそれで不安になるが、0%を楽しめるほどの度量はない。

特に仕事を再開して気づいたのか思い出したのかわからないけど思っているのは、案件の頻度と裁量余地は結構ウエイト高いかも、と思っている。