2012-08-11

膝を突き合わせて

とある仕事にて、関係者一同で膝を突き合わせて長時間にわたり語り合う機会があった。

そのこと自体、「取引先の、財務ラインのみならず事業部の方も含め、財務の話のみならず経営全般の話をトコトンやりたい」という自身の夢の一つが叶ったということであり、大変満足するものであった。しかし、そこで取引先とか「会社の同僚だけどこれまであまりじっくり話したことはなかった人」とかと話すことで得られた学びは大変に大きく、自分にとってものすごく貴重な時間となった。なので、以下に、業務上支障がない程度に、学びを記録しておきたい。

※ちなみに上に夢と書いたが、留学を終えた現在において、自分のCareer short-term goalは以下のようなところ:
・融資して財務上の問題解決に寄与するというよりも、投資して経営全般の問題解決に寄与したい(特にガバナンス)
・カネを貸す側でなく、借りる側に回ってみたい
・財務ラインのみならず、CFO、COO、事業部門長等含め経営陣全体と経営全般にかかる話をしたい
・帳簿を定期的に見せてもらうというより、事業全般のPDCAサイクルを見るような包括的なモニタリングがしたい
・案件の全般にわたり各種プロフェッショナルと連携することで、「プロの洗礼を受けた上で行われるプロレベルのディール」を仕上げたい
・IPO等を実現することで、Exitのトラックレコードを作りたい
・十分なIRR等投資パフォーマンスを達成し、ウハウハ言いたい
・案件が案件を呼ぶ、という状況を生み出してみたい


以下、感じたこと

● どんな会社にもマイナスの何かは存在する。何か欠点が存在するからといって、それは直ちに勤務先を見限ってよいということにはならない。欠点が、他社と比較して相対的に大きいということが確認されて初めて勤務先がイマイチといっていいことになる


● メンバーが責任を負った立場にありながらも「自分の言葉」でものを喋ることができる企業は強い。自分の言葉を持つハイレベルな幹部がいるという点においてもそうだし、議論の自由がある企業文化という点においても。


● ダイバーシティは、本当に強力。異なるバックグラウンドの人が交わることで、
①純潔主義では往々にして温存されてしまいがちな「組織としての欠点」みたいなところが洗い流される
(まるで、流動性のある市場ではミスプライシングが長期的に保たれることが少ないように)
②「歴史」の重要性が多かれ少なかれ希薄化することで、属人性等への依存が緩和し、官僚制がより有効に機能するようになる
③身内びいき・外様冷遇ではやがて組織が回らなくなるので、否が応でも、フェアな方向に処遇が進む。
もちろん、ダイバーシティの欠点もないとは言わないけど、今の日本企業の多くは、差し引き、ダイバーシティがあった方がプラスになるように思う。


●上に関連するが、純血主義の致命的な欠点の一つに、
・自らの誤り・弱さ等を認められずに、何か臨まない結果が生じた場合、自分(達)のせいにせずに他人に原因を求める
という傾向があるように思う。異なるバックグラウンドからのチャレンジがないので、「悪いのは俺ではなく、外部のアイツだ」という理屈がそこそこ正当性を帯びてしまうのだ。もし組織がダイバースあるいは流動的であれば、第三者による客観的な批判が生じるので「俺は悪くない、悪いのはアイツ」問題は生じない。
これは、自分がこれまで所属した複数のグループで生じた問題であることから、ダイバーシティなき組織に共通した問題なのだと思うに至っている。
自分は経験上「手柄は他人のおかげ、ミスは俺のせい」という発想が一番マシであると信じているので、上記の発想に触れるとアレルギー反応を起こしてしまうわけ。


●どんな組織も、企業文化というか、発想(あるいはパラダイム)が共有されているところがある。

たとえばサントリー。「やってみなはれ」という言葉は、おそらくかなり深くメンバー各人の精神に刻み込まれていると推察される。なので、(実はサントリー勤務の知人はいないので確かなことは言えないけど、)同社社員が何か難しい状況に直面したら、多くの人が「おーしやってみるぞ」という思考をするのではないだろうか。

このようなパラダイムの共有は、①一種のヒューリスティックであり組織としての決定のスピードが速くなる②隣のアイツも同じことを思ってくれるだろうと確信できることは、コトを進めるにあたり支えになるというメリットがあると思う。

ただ、こういったパラダイムの多くは、100%合理的で絶対的に正しいものであることはまずない。むしろ、同じくらい正しく思われる代替的なパラダイムが存在するからこそ、パラダイムの共有が図られていると言っても過言ではないのではないか。たとえば、「石橋をたたけ」というテーゼは、客観的には「やってみなはれ」と同じくらい強いメッセージであり、石橋をたたく企業文化の組織があっても全くおかしくないと思う。つまり、サントリーは、あえて「やってみなはれ」方面に偏向し、石橋をたたけ方面から離れていると解釈できるのではないか。すなわち、企業文化とは偏りなのだと思う。

そういった偏りがプラスの力につながりうる以上、そういったパラダイムが害悪だとは思わない。ただし、自分達がそういった発想に「囚われている」ことに自覚的になることには、結構意味があるのではないだろうか。自分達を良くも悪くも無意識に縛るパラダイムを、何らかの形で意識上に浮かび上がらせる作業。変革期に求められるのは、小手先の対策より、この「パラダイムの可視化」なのではないだろうか。

で、そのためには、PE投資等によるガバナンスの抜本的変更やメンバーのダイバーシフィケーションが有効なのではないかと思っている。メンバーが同じ物語を見ている間は組織は変われない。異物を入れることで「物語の脱構築化」をすることが、シンドイけれども重要なのではないかと感じている。
※「物語」とか言い出すと村上春樹病みたいでアレだけども

● 「きっちり聞いて、消化する」「拒絶する」というのが議論とか意見交換の基本パターンだが、「とりあえず聞き置いて、心の戸棚に入れておく」というのも、それはそれでアリなのかなと思うようになってきた。とりあえず留保しておいて、後日何か新しい情報が入ったときに改めて検討することでようやく解決できることもあるわけだし。

●その辺のラッパーさんではないが、家族とか親友とかではないビジネスパートナーとの人間関係は、リスペクトが基本となるべきであろう。相手の話の些末な一部を鼻で笑うというよりは相手の話の中から良い面を掴み取ろうとする姿勢、相手を叩き潰すのではなく相手と共に新しい価値を見つけ出そうという姿勢。様々な他人と交わり合うことで価値を作る仕事に従事するのであれば(投資業とかはまさにこれ)、Respect-orientedでない人はかなりマズいと思う。
※絶対的な真理というよりは、偏った話で、上の議論でいうと立派なBiased paradigmなんだけど^^

とか。多分事情知らない他人の方が読んでも殆どピンとこない話ばかりだが、何しろこのブログは自分の備忘用100%なので、よしとさせていただく。。