2012-08-06

決め方のクセ

仕事というのは、煎ずれば、意思決定であると自分は思っている。

別にどんな言い方でもいいが、合意・反対・代替案提示・受諾・内部調整・妥協・裁量・取捨選択・打診・謝絶・交渉・妥協・ブラフ...こういったものは全て意思決定である。仕事というのは、要するにこういった意思決定を積み重ねていくことであって、ボスから係員までが全員で、「ボールを受け取る→何らかの分析等→必要に応じて作業→意思決定→ボールを他人に渡す」というプロセスを無限に繰り返すものであると思う。
仕事の本質が意思決定であるという自分の意見が正しいのであれば、パフォーマンスの優劣は要するに意思決定の優劣に他ならないと言ってよいと思われる。

で、より良い意思決定のためには、以下のような要素が重要となる:

①スピード・・・1日で決定できる組織と1週間かかっても決定できない組織であれば、おそらく前者の方が優れたパフォーマンスを残すのではないか
※後者が、1週間じっくりリスクの洗い出しを行っていて前者がそれをさぼっていたということであれば話は異なる。しかし、同じリスク評価を1日でやるのと1週間でやるのでは1日でやる方がいいという話

②分析・・・質・量ともに十分な分析をもとに行う決断と、ところどころに煮詰め切れていないポイントが残ったまま行う決断では、やはり前者の方が好結果につながるだろう。
※これも上の議論と同様、スピード等、分析以外の要素は所与としたときの議論

③意思決定構造・・・オフィシャルには決裁規定、アンオフィシャルには役割分担。「このレベルの議論は誰がやって、このレベルは誰」ということが明示的非明示的に鮮明であるほうが、意思決定はうまくいくことが多いと思われる。そのイシューについて裁量権のない下っ端が好き放題なことを相手にコミットしてしまう組織や、大ボスが詳細まで気にして一向に話が進まない組織は、やっぱりちょっと頼りにならなそう。

できるだけ充実した分析のもとにスピーディに判断を行い、しかも適切な過不足のない役割分担ができていれば、その組織は強いと言っていいと思う。


ここまでは留学前から思っていたことで、ここからが留学後の最近思っていること。
上記のように、仕事における意思決定は非常に重要なのだが、そんな意思決定における「個人差」にももう少し注目したほうがいいのかもしれないと考え始めている。

多かれ少なかれ、誰もが、その意思決定に個人的なスタイルを持っている。
人によってはその違いに優劣を付けたがるかもしれない。自分も実は留学するまで「センスある人、ない人」が存在すると考えていた。

でも、なんというか、結局のところそこに存在するのは違いだけで、優劣ではないのかも...ということを思っている。
なんでも今すぐその場で決めたがる人もいれば、できるだけ判断を留保してギリギリまで粘りたい人もいる。自分一人で決めることに喜びを見出す人もいれば、皆で合意形成することに納得感を得る人もいる。

繰り返しになるが、これらのスタイルの違いを優劣と見るか単なる差異とみるかは人によって意見が異なると思う。ぶっちゃけ自分も、いまだに時々は飲み会とかで「あいつはよぅ...」とか愚痴る。さはさりながら、少なくとも仕事をしていく上での実際的なところとしては、「そこにあるのは違いだけ」というスタンスが有用なのではないかというのが最近思っていること。「あるのは違いだけ」というスタンスで虚心にチームメイトの意思決定における癖を理解しようとするのがいいのではないだろうか、そんなことを最近思っている次第。「あいつの思考回路はイケてない」とイライラしても、多分その人の思考プロセスを変えるのは極めて困難である以上、「理解して、対応する」というスタンスに切り替えるのがいいのではないか。そんなことを思っている。

※人はこれを「おっさんのサラリーマン化」「空気ばっかり読みやがってつまらない大人め」と呼ぶのかもしれないが、、、

※もちろん、いくばくかは優劣も存在するとは思う。たとえば、意思決定それ自体を倦厭している人とか。そういう人が最後の最後まで判断を先送りして、最後選択肢が限定された状況でエイヤーでテキトーに判断するのを見たりすると、「ちょちょっ」と言いたくはなる。「意思決定するぞ」という前提が共有されている限りにおいては存在するのは優劣だけだけど、「え、意思決定しなきゃだめ?」という人はやっぱり多少見劣りする。