2016-12-29

記述的議論vs規範的議論

仕事で人と話していると、けっこう無邪気に「君はXXXすべきだ」と、こちらの土俵にズケズケと踏み込んでくる人はいないだろうか。

何の権限もないくせに、平気でこちらが決められる事項に「すべきだ」口調でものを言われてしまうと、どうしてもイラっとしてしまうことはないだろうか。

このような「~べき」という言い方を規範的議論というのだが、以下では


  • 規範的議論とは何か。その対にある記述的議論とはどの様なものか。
  • 両者の使い分けの仕方はどのようにすればいいか。

について、自分なりに整理してみたい。

全般に、参考文献は愛読のギルボア「意思決定理論入門」(リンク)「合理的選択」(リンク)

この本はおよそ意思決定の実務に携わる人全てが読む価値のある本だと思う。

2016-12-19

意思決定のフレームワーク (3) 合理性をはみ出た世界

前回の続き(3回目)。

前回までに、意思決定にまつわる議論を「客観性の壁」「合理性の壁」という2つの線引きにより分類し、以下3つに世界を分割した。
  • リスク下の世界
  • 不確実性下の世界
  • 合理性の範疇外の世界
その上で、第1回でリスク下の世界について、第2回で不確実性下の世界について述べた。今回は、残る3つ目の、合理性の範疇外の世界について考察してみる。

2016-12-18

意思決定のフレームワーク (2) 不確実性

前回の続き。

前回は、意思決定にまつわる議論を「客観性の壁」「合理性の壁」という2つの線引きにより分類し、以下3つに世界を分割した。
  • リスク下の世界
  • 不確実性下の世界
  • 合理性の範疇外の世界
その上で、そのうちリスク下の世界について述べた。今回は、2つ目の不確実性下の世界について考察してみる。


2016-12-17

意思決定のフレームワーク (1) ・・・リスク

意思決定について、以下数回に分けて、意思決定に関し、以下のような論点について考察してみたい。

  • リスクと不確実性って何が違うの?
  • リスクへの対処方法にセオリーはあるのか?不確実性については?
  • 実際の意思決定ってそこまで理詰めではないと思うが、理屈を超えた世界はどう説明するのか?


なお、参考書籍は以下の通り。

(1)ギルボア「意思決定理論入門(Link)
(2)ギルボア「不確実性下の意思決定理論(Link)
(3)カーネマン「ファスト&スロー(Link)


本稿は3部構成で、本ポストはパート1.
本稿のパート2 → リンク
本稿のパート3→リンク



2016-12-10

課題発見力と課題設定力は別物( 視点のピボット)

まもなく退任するオバマなんかを見ててよく感じるのは、視点をずらして、少し違う観点からものごとを捉えなおすことが非常に上手だなぁということ。

難しい問題を

・より広い視座から捉えなおすことで、対立構造を緩和する

・少し視座をずらすことで、理解を容易にする

等。

リーダーに求められるスキルは、よく課題発見力・課題設定力・課題解決力という感じに分類されることが多いが、オバマは課題の発見・設定には天才的に優れていたように感じる(解決力はよくわからないが)。

ここまで「視点をずらす」ということについて書いてきたが、それでは「視点をずらす」とはどのような意味だろうか。

本稿では、ピボット力あるいはリフレーミング力について考察してみたい。

2016-12-03

建設的な対話のために:『話す技術、聞く技術』

最近手に取った「話す技術 聞く技術」という本(→リンク)。

交渉に関する古典である「Getting to Yes」(邦題が「ハーバード流交渉術」(→リンク)とダサいのがイマイチ)の続編。

Getting to Yesが「どうやって実りある交渉をするか」という平時の交渉を扱った本であるのに対し、本書は「会話がうまくいかないとき、どのように立て直すか」という有事の対応を扱った書籍。

得てして、交渉時には、心情的な対立が生じて「そもそも交渉にならない」という対立的状況に陥りがち。

それゆえ、平時のノウハウであるGetting to Yesだけでは足らず、対立時のノウハウである本書をセットで読むことが有用。

非常に面白かったので、その内容を自分なりに咀嚼してみたい。

2016-11-26

リーンスタートアップはいいことなのか?

よく行われる議論について、周回遅れの考察。リーンアプローチについて、その長所・短所・使い方等について少し検討してみたい。


2016-11-13

Focus on your game / 他人にいらいらしないための小技

生きているとどうしても、人と意見が衝突してしまい、自分の意見が通らず苦い思いをしてしまうことがある。そういうとき、気の持ちようによってはイライラが募り、友人とケンカしてしまったり、会社を辞めたくなってしまったりする。

自分も昔はしょっちゅうイライラしていたが、留学先の教授から学んだ「Focus on your game」という発想に触れてから、イライラすることが減ったし、衝突を過度に恐れずにふるまえるようになった気がしている。

以下、Focus on your gameの概念について少し考察してみる。

2016-11-12

他人は変えられる?

前回の投稿で、「他人は変えられないので、自分のアクションにフォーカスするといいのでは」という趣旨のことを書いた。

他方で、影響力に関する本(→参考例リンク)やチームマネジメントに関する本(→参考例リンク)がたくさん氾濫していることからわかる通り、「人を変えるためにはどうすればいいか」というアプローチの分析もたくさん存在する。

これらを見ていると、「他人は変えられるのか、変えられないのか、どっちだよ!」と言いたくなる。その一見すると相反する状況をつなぐためには、

「人はうまくやればある程度変えることができる。ただ、難しいし、他人を変えるよりは自分が変わる方が楽なので、実務上、他人を変えられないと仮定して動いた方がよい結果が出やすい」

というバランスの取れた発想をもちつつ、「変えられない」という保守的な認識と「変えられる」という希望的認識を併せ持つことが重要かと思う。

そんな観点から、今回は「他人は変えられる」という発想を起点にいろいろ述べてみたい。

2016-11-05

他人は変えられない?

自分の会社の中でも、友人等の話を聞いていても、よくある愚痴ネタに以下のようなものがある:


・「部長はわかっていない。本来であればXXXすべきだ。これでは改善が見込めない」
・「常務は問題から逃げている。俺だったらYYYする。実に残念だ」


なんというか、非常に「あるある」な感じだと思う。自分だってしょっちゅうそういう感情を抱くことは否定できない。


ただ、そういうときに、自分が留学中にとあるアントレ系の授業で実務家出身の教授が言っていた言葉がブーメラン的に刺さるので、少しその辺について紹介・考察してみたい。


2016-03-20

Thinkpad 下取り紀行

Surface Pro 4を買ったことに伴い、2010年から愛用していたThinkpad X201を下取りに出してきた。

今回はブックオフとソフマップ(ビックカメラ)の2か所と相談しつつ結局ソフマップで下取りに出したのだが、それぞれで結果が随分と違ったので備忘まで記録しておきたい。

ちなみに、2010年に買った古いモデルではあったが、SDD搭載だし、メモリも多めに積んでいたので、バッテリーが弱くなっていること以外は問題がないと思っており、そこそこの自信をもって下取り紀行に向かっていた。

ブックオフ

都心のとあるブックオフにThinkpadを持参。とても忙しそうで、どうやらPCは「通常のプロセスから少し外れた商品」ということであるようで、店員さんが少し面倒そうな顔。嫌な予感をもちつつも相談してみたところ、「忙しいので、ざっと2時間は待ってくれ」とのこと。

まいったなぁと思いつつも、休日で暇だったので了承し、電話番号を伝えた上で辞去。

読みたかった本でも買って読もうということで、本屋で欲しかった書籍を買って、その足で近所の空いていたカフェに陣取り、「よし、いまから2時間だ」ということで読書を開始。

そしたら、たったの30分後くらいに、できたので清算に来てくれとの連絡が。

おいおい、買ったアイスコーヒー半分以上残っているよ・・・と思いつつ、書籍のキリがよいところまで粘って、45分後くらいに再びブックオフへ。

値段を聞いてみると、たったの3,000円・・・。おいおい、絶対SDD云々とか査定せず、X201という機種名だけ、あるいは年式だけとかで査定しているでしょ。こりゃまいったと思い、価格に同意せず、PCを回収してその場を辞去した。

自分との闘い

一連のプロセスで一番悩んだのが、ブックオフをいったん辞去してから、ほかの店に行くか否かの逡巡だった。

いまとなっては本当に手ぬるい話だが、こういうときになると、途端に、

「面倒だからブックオフでいいじゃないか」

「どうせほかの店でもたいして変わらない値段しかつかないよ」
「ほかの店に行ってブックオフと似たような値段だったらどうするの?」

等、いろいろな悪魔のささやきが襲い掛かってきた。

今になって思えば、「ほかの店に行ってもいい査定が得られないリスク」なんて取るに足らないし、いい査定が得られないことを確認してからでも判断は遅くないのだが、不思議なもので、色々な観点から他店比較を妨げる悪魔のささやきと戦うハメになった。

ソフマップ

上記のような悪魔のささやきと戦いながら、その足でソフマップ(ビックカメラの上のフロアにある相談カウンター)へ。

ここはラッピングや返品等、下取り以外も色々やっているようで、3人くらいの店員がひっきりなしに複数のタスクを要領よくこなしていた。

呼ばれたので相談したところ、さすがに古本屋ではないので、非常にスムーズに受付が進み、色々査定したいので1時間はかかるが、場合によっては明日来てくれてもかまわないとのことだったので、翌日くることを伝えその場を辞去した。

翌日再訪問して査定結果を聞いてみると、なんと18,000円と非常にうれしい査定結果が出ていた。
聞いたところ、本来は2万円強がスタートラインだったそうだが、
(1) F1キーを外していたのだが、それが外し方が悪かったのかくっつきが悪いとのことでマイナス数千円
(2) 筐体の汚れでマイナス数千円
(3)説明書がないことによりマイナス千円弱
でトータル5千円程度のマイナス査定であったとのこと。

とはいえ十分満足いく水準だったし、その後のデータ消去等にも安心感があったので、「もう一軒、あるいはヤフオクとかも比較した方がいいかな?」と思いつつも、結局ソフマップに売却してしまった。

教訓

  1. データ消去を重視するのなら、しっかりした店舗で売る選択肢が有用。
  2. モノにもよるのだろうが、やっぱりブックオフの下取り価格は渋い。
  3. Always have alternatives. 交渉は代替選択肢をもちBATNAを高めるところから始まる。
  4. 交渉等をしているときには、どうしても頭の片隅に悪魔が出てきて、弱気や不安を一生懸命突っついてくる。これを「そういうもの」と認識すること・己の弱さを受け入れて、その前提で交渉に臨むこと(自分が強いという前提で交渉に臨んでしまうと、こういうときに折れやすいのではないか)
  5. やって失うものがあるわけでもないのであれば、とりあえずやっておくべし。今回であれば、ソフマップ査定をやって失うものはないのだから、あそこで弱気の虫が出るのはさておき、最終的には躊躇すべきではないのだろう。
と、たかがパソコンの下取りから、若干無理目ではあるが教訓めいたものを引き出してみた。

2016-03-19

Surface Pro4 使い心地改善計画

数か月前に購入したSurface Pro4.前任のThinkpad X201が調子悪くなって買い換えたのだが、こちらはこちらで色々とフラストレーションがたまっており、なかなかThinkpadを手放すという判断ができずにいた。

しかし、いつまでもPC2台持ちしていても仕方ないので、連休ということもあり、覚悟を決めて、Surfaceの不満点を洗い出し、それを一つ一つやっつけて、最終的にThinkpadを不要な状態に持ち込みたいということで、急遽Surface改善計画を挙行することとした。

以下、その苦闘の軌跡・・・。

2016-03-15

転職したら閉塞感は解決するのだろうか?

もういい歳なので、日々色々なきっかけで転職について思いをめぐらせる。

というのも、
  • 自分もすでに30代、結構な数の同期・後輩・友人等が転職を経験している(自社・自社以外含めて「半分くらい」という感覚)
  • MBA留学していたので、当然ながらその関連の知人友人はほぼ90%は転職している
  • 自分自身も当然ながら、キャリアの折々でいいときと悪いときがあって、悪いときには「えーい、転職か!?」とか考えることもある
等(ちなみに自分は転職していない側)。

転職は完全に個人的なものであり、成功も失敗もない話だと思う。年収の増減だけでは測定できないし、転職の瞬間だけを短期的に見てもやっぱりわからない。

そのような中で、あえて大胆に、ひとつの角度から、転職する・しないに関する論点について考察してみたい。


閉塞感


仕事をしていると、どうしても閉塞感を感じることがある。

  • 自分のやっている仕事の先行きが暗いのではないか
  • このままでは思うようなスキルがつかないのではないか
  • いつになっても収入が上がらない
等。

おそらくこのような「閉塞感」と「同僚との人間関係」は、退職理由ランキングの上位なのではないかと思う。

また、最近の雰囲気として、人口減少とかデフレとかその他もろもろの「マクロ経済の低迷」というマクロ要因となぞらえて、

「どの部署にいっても将来性が感じられない」

という閉塞感を持っている人が少なくない感覚がある。日本オワタ、みたいな。


閉塞感は会社のせい?


こういった閉塞感は人のモチベーションを損なうには十分もっともな問題だろう。

また、その解決のため、何らかの変化を求めるという考え方も、これまたもっともな発想ではないかと思う。

たとえば、最近だと、そのような観点で大企業からスタートアップに移る人も少なくない印象。

他方で、こんなことを思ったりする:

  • 「アツい」仕事はどこにでもある・・・
    大企業にいても、新規プロジェクトとか、不採算案件の構造改革とか、「アツい」仕事はそれなりにある。
    同じ会社でも、上手くいっている人は楽しそうにしており、上手くいっていない人は会社に恨みすらもっていたりする。
    「アツい」「アツくない」と「大企業」「スタートアップ」は必ずしも1:1対応していないように思われる。
  • スタートアップにも、つまらない仕事はある・・・
    スタートアップでも、5年もすると当初のコアビジネスは成熟化してしまう。
    経営者とかは新事業にシフトして引き続き楽しんでいることも多い。
    しかし、一担当者レベルだと、成熟化したビジネスからのキャッシュの刈り取りが仕事になりがちで、「スタートアップなのに閉塞感が」みたいなことになることも。
  • 同じ仕事でも、人によって楽しめる人とそうでない人がいる・・・
    同じ新人の雑務仕事でも、単純作業と考えて不承不承やる人がいる一方で、「やるからにはXXX」等考えて日々楽しみながら改善・成長する人がいる

思うに、閉塞感も、その対義語である「アツい」状態も、会社という軸だけでは語りきれない。

もう少し小さな、部署とかチームとか、さらにいえば個人レベルの問題に本当に論点があることも多いようにも思う。

少なくとも「アツいスタートアップに入れば解決する」という類の問題ではないように思う。

また、どんな会社・部署でも、長期にわたりフルスイングで「アツい」状態が続くことは珍しい。

充足感を長期にわたり得続けるためには、会社や部署といった「場所」だとどうしてもサステナブルではない。

なので、別の方法で短期借入の借り換えのごとくロールオーバーする発想が不可避になるように思われる。


ではどうしましょうか


雑にまとめると、

会社の大小や部署といったものは、閉塞感打破のSilver Bulletにはならないのではないか
(長期的には絶対に・短期的にもかなりの割合で)


ということかなと思う。

もちろん外部環境は閉塞感打破のひとつの良いきっかけ・後押しにはなる。

しかし、閉塞感から逃げ、充実した仕事をするためには、結局は「その場を自分で楽しくしてやる」という気概は避けて通れないように思う。

で、結局は自分の気持ち次第という話なのであれば、大企業には大企業の楽しさがあるはずだし、スタートアップにはスタートアップの楽しさがあるという価値中立的な話に落ち着いてしまうのではないかと思う。

今の居場所に相性の悪さを感じる等のネガティブな要因があるのであれば早めに離脱するのが良いだろう。

しかし、「ここではないどこかには、閉塞感のないアツい場所があるのではないか」という発想をもってしまうと、青い鳥探しに翻弄され人生結構しんどくなるのではないかなんて思っている。

参考

「社内でしか通用しないスキル」なんて実はほとんど存在しないのではないか?・・・類似のテーマについて考察した本ブログの別稿。

2016-03-13

Be Practical?

社内でも社外でも、実務的な人はけっこう多い。ものごとを小気味よく縦横に再整理して、バッサリバッサリと優先劣後立てを行い、上の人が意思決定しやすいようなアウトプットを用意するといった感じ。

昔から、そういうPracticalな人を見たときでも、ある人には「いいなぁ」と思えるが、別の人には「うん、でもちょっと違う」と思ってしまうなど、自分でもよくわからないものの2つの相反する感想をもつことがあった。

以下はそういった自分のモヤモヤに対する試案。

おしごと=課題設定×エグゼキューション

仕事の分野やその人の階級等にもよるとは思うけど、ものすごく雑に一般化すると、仕事は上記の通り2つに因数分解できると思う:

(1) 課題設定:眼前の現状を見て取り組むべき課題を特定したり、上司からの指令を自分なりに再構成してみたりといった取り組み。
(2) エグゼキューション:課題設定のフェーズで特定した課題を、しかるべきリソースを投入して(例:自分の専門性や時間、あるいは部下の時間)、一定のアウトプットを仕上げる

なので仕事は大抵2段階ゲームで、その2つの総合評価にて価値が決まり、それが定量的あるいは定性的に顧客・上司・その他関係者から名に暗に評価されることになる。

両者は2つともできてナンボである側面が強く、課題は設定できてもそれを解決できない人はイマイチだし、ゴリゴリとエグゼキューションする気合や手腕を持つ人であっても課題設定がイマイチであれば結局は苦労する。

Practical①・・・エグゼキューションが上手い

以下、2つの側面から「Practicalって何だろう」「Practicalな人ってどういうことなんだろう」という問いを考えてみる。

まず思いつくのは、Practicalな人とは、すなわち、上記2段階ゲームのうち後半のエグゼキューションが上手い人。普通の人が3日かかる仕事を1日で仕上げるとか、どの点についてはどの同僚の知恵を借りるべきか熟知しているとか、面倒な上司の説得の仕方を心得ているとか。

この側面においては、Practicalであることはポジティブに評価できるように感じる。やっぱり、一緒に仕事するパートナーとしては、仕事が上手な方が有り難いし。

なお、そういう人に見られる一般的な特徴としては

  • 担当分野に関する専門性が高い
  • チームやカウンターパートの動きが「見えて」いて、的確なパスやシュートが打てる
  • 「自分で抱える」と「人に頼る」のバランス感覚が良い
等があるように思われる。

Practical②・・・課題設定が「小さい」


他方で、もう一つ考えられるのは、前半の課題設定がやたら小さく、その結果としてエグゼキューションの評価が高くなるパターン。

その人に求められるエグゼキューションだけをスタンドアローンで見るとよいパフォーマンスなのだが、どうも全体として結果が伴っていなかったり、あるいは小さくまとまっていたりするような場合、またはそういう仕事になりがちな人。

見ていると、たまに、エグゼキューションから逆算して、「うまくできるような課題を選ぶ」「対処可能な水準にまで、課題の水準を落とす」という発想の人を見かける。たとえば、課題を「M&A案件の成就」としてしまうと難しいので、ゴールを「新規営業10件」として、それを楽々達成して「俺はやることやった」というような人。結果としてチームとしてM&A案件は成就しないが、その人は満足してしまっているような場合がある。
ひどい人になると、自分が対処できる範囲の課題のために、チーム全体の目標まで目線を下げてしまっているような場合も見られる。ゴルゴ13に暗殺の依頼をしたら「それは難しいから、あきらめて和平してはどうか」と逆提案されたうえで、ゴルゴが暗殺の代わりに和平の下準備をそつなくこなす・・・みたいなへたくそな例を思いついた。

このような人も、見かけ上は「そつなくエグゼキューションをこなす」という意味でPracticalなのだが、やっぱり好意的に評価するわけにはいかないのではないかと思う。


結局は課題設定次第

本稿ではPracticalを「エグゼキューションが上手い」と定義しつつ、それを①本当にエグゼキューションが上手い②エグゼキューションできるように課題を矮小化するという2つに分解を試みた。

上記は、同じようなことを2方面から言い換えているだけにも思われるかもしれない。
また、我々は夢想家ではなく実務家なので、as small as feasibleな程度に課題を小さくすることは否定されるべきものではなく普通に評価されてしかるべきものだ。

等多方面から議論はできるのだが、思うに、ひとつの論点は、課題設定にあたってのラスト1マイルの優先劣後に対する感覚が「いいPractical」と「悪いPractical」を分ける試金石なのではないかと思う。

・できるだけ大きな課題を解決したいが、かといって大きすぎては解決できないので、必要最低限の範囲で課題を小さくし、その課題を一生懸命Practicalにエグゼキューションする

人と、

・できるだけ「上手いエグゼキューション」になることを目的に据え、そのため、関係者間で揉めない限り最大限課題を小さくしてしまい、その結果として余裕でエグゼキューションする

人。両者とも表面上の見かけはPracticalだが、前者は尊敬できるが後者は物足りなく感じる。

もちろん、「エグゼキューションが下手」という本稿ではスコープ外にいたような人との比較においては後者も悪くはないのかもしれないが、肌感覚的には、「課題を矮小化してソツなくこなす人」よりは「適切な課題設定をして、覚悟の結果としてエグゼキューションで失敗する人」の方が結果的にはチームに大きな果実をもたらしてくれる気がする。

ということで、自分のいったんの結論としては、やっぱり大事なのは課題設定に関する感度や手腕こそが大事で、せっかくのエグゼキューション能力も課題設定能力の巧拙により「素晴らしい」にも「物足りない」にもなりうるのではないかと感じている。


2016-03-03

弁護士は交渉上手?

折々趣味的に読み返している”Power Negotiating”という本(→リンク)にて面白いと思った話のひとつ。

2016-02-28

Arial / Times New Roman 復古主義

久しぶりの投稿。

仕事し過ぎて、インプットとアウトプットのバランスが偏っている(あるいは、アウトプットの仕方がオフィスでのアウトプットに偏り過ぎている)がするので、久々にスタビライザーとして書いてみる。いわばペースメーカーとしての投稿なので、思いついたことのなかで一番くだらないことを書いてみる

ここ最近、異なる所属のメンバー複数人で手掛ける案件に数か月ずっと没頭していた。
一段落したので色々振り返っているのだが(ちなみに、振り返り・PDCAが大事って左脳君は口を酸っぱく自分に投げかけてくれるのだけど、いざ終わると、そんな気オキナイヨネ)、その中でふと思ったことの一つに、「チームプレイはムツカシイが、メンバー間で体裁ひとつ揃えることすら案外簡単ではない」という学び(?)があった。

What Happened

ちなみに、今回は自分がPM的立場であったことから、自分の好みを通させてもらって、
・Word文書の本文は、MSP明朝+Times New Roman
・Wordの図表やExcel,PPTは、MSPゴシック+Arial
としたのだが、いくつか「あるある」的プチ摩擦があって、

  • 新人あるある的に、英数フォントもMSP明朝で作ってくる
  • 保守主義なのか、MSP明朝ではなくMS明朝で作ってくる
  • 「Times New Romanはちょっと・・・」と、Centuryを投下してくる
  • トレンド追随的に?英数だけCalibriで切り込んでくる
  • 外角高めから、日本語も英数もメイリオで攻め込んでくる
等、色々な事案が生じ、案件序盤は少なくない割合、体裁を含む基本的なローカルルールの共有に時間を使った気がしている。

Issues Behind that

こういったトラブルが起きるのは、認識共有の不十分という運用レベルの問題も否定はできない:
  • そもそもフォントへの配慮が浅い:MSフォント(の英数フォント)が汚いという感覚が共有されていないところがある
  • 保守主義:日米問わず、多くの企業は結局のところ「その国のOfficeでのデフォルトフォント」を使っている。そのため、昔の米系企業はArial、最近の米系企業はCalibri、日本企業はMS明朝+Centuryあたりが、単にデフォルトであるというだけにもかかわらず「伝統的な、あるべきフォント」として崇められている傾向がある(実は自分も、会社の公式文書では、「全部MS明朝」という屈辱的なフォントに屈していたりするのだけど)
  • 共同作業への不慣れ:これは国というよりも企業や働き方によるところが大きいと思うが、一案件一担当者的な働き方が基本形である企業の人が集団で作る資料は、体裁がガチャガチャしがちなところがある
だけど、どちらかというと、以下に述べるようなOfficeの技術上の問題も大きい気がしている:
  • 英数フォントの分離可否:WordおよびPPTでは和文フォントと英数フォントを使い分けできるが、Excelではできない(ので、都度全セル選択→フォントをArialにする、という作業が伴う気がするのだが、これ他にいい手ありますかね?)この点においては、和文も英数も同じフォントとなるMSフォントあるいはメイリオ(またはMeiryo UI)に分があると言える
  • カーニング:フォントの美しさをスタンドアロンに論じるならばTimes New Romanは良いのだが、日本語との相性が良くなく、妙に近接してしまうところがある。メイリオのようにポッカーンと離れているのもバカみたいで好きではないのだが、確かにTimes New Romanが完璧なフォントでないことは認めなければならない
  • ちなみに、少し離れるが、最近買ったSurfaceのせいなのか、それともOffice2016の仕様なのか、MSPゴシックがやたら汚く見え、最近は自分も不承不承メイリオへの傾倒を強めてしまっている。

Bottom Line?

つらつらと書いてみたが、あまり絶対的な「あるべきイメージ」はないような気がしており、今後も誰と働くかによって自分自身使用フォントは変わっていくのかなと思っている。とはいえ、フォントから自分たちのチームワークへの配慮の濃淡が透けて見えてしまうところはあると思うので、以下あたりは気を付けていきたい
  • Uniformity:結局フォントはなんでもいいけど、少なくともひとつの書類の中では統一したい。Aさんが作ったスライドでは明朝体、Bさんが作ったスライドではメイリオというのは避けたい。ちなみに結局本案件では、序盤に体裁その他についてローカルルールを定めたのだが、それ自体が関係者のコミュニケーションコストを下げる効果があり全体のパフォーマンスにも寄与した気がしている
  • でも、決め過ぎない:たとえばフォントならまだしも、数多ある論点について序盤に変に「固めすぎる」と逆効果というかメンバーの創意工夫を阻害する効果も否定できない。結局すべてはバランスという話になってしまうのだが、この点についても、メリデメ両方を理解した上で適切なバランスをリーダーが判断することが大事。
    ただ、念のためだが、日本企業の多くは、集団行動にルールを設けることに消極的すぎる(ルールを決めない代わりに、空気に従うことを要請しがち。ルールは権力者の横暴を止めるためのものであり、むしろ現場の人間の自由度を高めるためのものという発想が希薄な気が・・)であり、どちらかというときちんとルールを決めた方が良いと感じている。
  • デフォルトフォントの相対化:たとえば自分の場合における社内公式文書等、MSフォントが実質的にルールとなっている場合においては、そのルールに従うことが望ましい。そこでメイリオを使うのは逆にGoing my way過ぎと思う。しかし、デフォルトフォントは決して不可侵の神聖ローマ帝国ではなく、あくまでMicrosoft社がデフォルト設定したフォント、数あるフォントの一つに過ぎないことには自覚的でありたい。ローソンのコーヒーしか知らずに「ローソンのコーヒーは美味しい」というのと、数あるコーヒーを飲み比べた末の判断として「ローソンのコーヒーは美味しい」というのでは意味が違ってくる。